壱の3
甘味処を開いている田中屋で、助けていただいたお礼に、とあんみつをご馳走になって、すばるは家路を急いだ。
雷門をくぐり、仲見世通りをちょいと横に入っていくのが近道で、土手の脇に出てしばらく歩くと道場の門が見えてくる。
ここまで来ると人通りも家並みもまばらだ。
門のそばに馬車が止まっているのを横目に見て、すばるは中に入っていった。
そろそろ子供たちが道場に集まってくる頃である。
道場を覗くと、一番古い門下生である斎藤八十助が一人稽古に励んでいた。
戊辰戦争で父を亡くし、その後すぐに母も亡くした彼は、今ではこの道場に住み込んで働きながら、剣術修業をしている身であった。
今は剣術よりも学問であると弘一郎も言うのだが、彼はかたくなに剣の道を突き進んでいる。
すばるの正体を知る数少ない人々の一人で、すばると同じく師範代であった。
普段の稽古はこの八十助とすばるで行なっているのだ。
音を立てないようにそっと道場を出たすばるは、次に父の部屋を訪問した。
帰宅を告げるためである。
玄関にも洋靴が置いてあり、どうやら父に客があったようなのだ。
となれば、茶を淹れて持っていかねばなるまい。
ちょうど田中屋で買ってきた羊羹を切り分けて、すばるは父の部屋を訪れた。
いらっしゃいませ、と頭を下げて、顔をあげたすばるはそのまま固まってしまった。
客人の正体に驚いてしまったのである。
それは、明治維新の立役者、山県有朋その人であった。
弘一郎とも同世代同藩出身者で、その意味では同志とも言える相手である。
今現在は参議兼参謀本部長という身分にあった。つまり、現政府の頭脳である。
四年前の大久保氏暗殺事件からとたんに忙しくなった人の一人でもあった。
維新志士の主義主張を今だに強く掲げている最後の一人なのだ。
明治維新以後、山県有朋が弘一郎の元を訪れたのは初めてのことであった。
したがって、山県氏はすばるを知らない。彼女の顔を見て、山県氏はおや?という表情になった。
「藤堂君はいつのまにこんな若い奥方をもらっていたのだ?」
「娘ですよ、山県殿。この浅草に流れ着く途中で拾いましてね。すばる、ご挨拶を」
「藤堂すばると申します。お見知りおきを」
深々と頭を下げる。
山県氏は軽く会釈をして返した。
「ところで、遅かったね、すばる。何かあったか?」
「上野で人助けをしてまいりました。田中屋のご主人が自称士族に囲まれて難儀しておられたので」
「そうか。ご苦労であったな。そろそろ稽古の時間であろう。行きなさい」
「はい。山県様、どうぞごゆっくり」
また深々と頭を下げて、すばるが部屋を出ていく。
襖が閉まったのを見届けて、山県氏は改めて首を傾げた。
「似ていないか?」
「誰にです?」
問い返す声が少し笑っているのに気づいて、山県氏は眉をひそめた。
「まさかとは思うが、知っていて引き取ったのではあるまいな?」
「知っていて引き取ったのですよ。他の方々には内緒に願います。皆さん、死んだものとお思いでしょう?」
「まったく。よりにもよって『鬼姫』を引き取るとは、粋狂にも程があるぞ」
「粋狂などではなく。山県殿もご存じのはずですよ。私やあの子のように、人斬りとしてしか生きられなかった者の、辛さや悲しみが。同病相憐れむというわけでもありませんが、似た者同士肩を寄せ合うのもまた一つの救われる道です」
「……確かに、あの者と敵同士であったのももう十五年も昔の話だ。ところで、あの者は確か不治の病に冒されていたのではなかったか?」
「それでしたら、私があの子を拾ったときにはすでに治っていましたよ。もしかしたら、病を治すのと引き替えに、あんな不自由な体になってしまったのかも知れませんが」
年令が合わないでしょう?と言って、弘一郎は笑った。
山県氏は言われてから少し考え込み、ぶすっとした表情のままで頷いた。
「ところで藤堂君。一つ頼みがあるのだが、聞いてもらえぬか?」
「聞くだけなら。引き受けるかどうかは、内容とそちらの態度次第ですが」
答えて、弘一郎はすばるの淹れてきた茶に手をのばした。
山県氏は胡坐に手をついたまま固まっている。
その気になれば国を動かすことも難しくない山県氏が、こんなに緊張しているのだ。何かあると考えて然るべきである。
弘一郎は結局、茶碗に口をつけないまま、それを下ろした。
山県有朋という大人物が藤堂弘一郎という一介の剣術者に直々に会いにくるほどの事態。
それは、この国の行く末までも左右する、ささやかだが重大な出来事であった。
文明開化といえば聞こえはいいが、この頃の政治経済文化などなどはすべて、暗中模索せざるをえない状態にあった。
日本に開国を迫った国々も、それぞれにそれぞれの文化や政治形態を持っており、一長一短がある。
それらのいいところだけを取り入れようというのだから無茶な話だ。
その無茶な話を推し進めようと先陣を切って働いているのが、のちの初代内閣総理大臣となる伊藤博文や山県有朋らである。
外交を少しでも有利に進めようと苦労している井上馨や、働きすぎで身体の不調を訴え一線を退いた岩倉具視など、数々の維新志士が骨身を削って働いていた。
もちろん、すべてが後の世で誉められたわけではなく、やはり人間であるから自らの欲に溺れたものも多い。
しかし、百年後の日本国の繁栄は、彼らの尽力なくしてはありえなかったのだから、それは評価に値するものであるだろう。
そんな大人物たちと、十五年前、肩を並べて歩いていた男が、この藤堂弘一郎である。
山県有朋や伊藤博文と同じく長州の出身で、京都では彼ら維新志士や自らの身を守るため、新選組と戦った勇者だ。
その一方で、あまりにも強すぎるその剣の腕から、人斬りの異名を取り、恐れられてもいた。
幕末の動乱の中で人斬りの二つ名を与えられたほどの男として有名なのは、土佐の岡田以蔵、新選組の沖田総司、などという人々である。
彼らと並び称される腕だということで、つまりはそういう男なのだ。
この藤堂弘一郎、自分が維新の功労者であるとはどうしても認められないでいた。
自分は所詮人斬り。
高い信念を持って戦っていたわけではなく、ただ維新志士たちの役に立ってやりたくて戦っていたまでだ。
それが弘一郎の言い分である。
したがって、警察所長になって治安維持に尽力してくれという仲間の誘いを断り、しばらくの間行方をくらましていた。
藤堂弘一郎が東京に再び姿を見せたのは、ちょうど八年前だった。
現在藤堂一心流の道場があるその場所は、当時、不良士族の溜り場として評判のすこぶる悪かったやくざ道場を大掃除してやって手に入れたものだった。
その大掃除の一件で、警察のご厄介になることになり、ひいては山県有朋や故大久保利通に存在を知られる原因にもなったわけだ。
この道場の大掃除の時には、すでにすばるの存在があったことが確認されている。
その頃のすばるは、今のような明るい御転婆娘ではなく、何やら暗い過去を背負って歩いているような根暗な女性であったという。
これは八十助の証言である。
藤堂一心流の最初の門下生は、この斎藤八十助であった。
月謝を払う金が無く、どこの道場からも蹴られていた八十助がたどりついた先がこの道場というわけだ。
弘一郎は金のない者からは月謝を取る気はないようで、金のある者からでも最低限の金額しか取らず、したがって、ここまで道場が大きくなって初めて、余裕のある暮らしができるようになっていた。
そういう人となりが、近所の人々の信頼につながっていったのだ。
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