壱の2
しばらくして、すばるは背後に複数の男たちの怒声を聞いた。
振り返ると、どうやら士族崩れの男たちに気の毒な商人ふうの男がぶつかってしまったところであるらしい。
医者がどうの弁償がどうのと言っている。
すばるは軽く肩をすくめると、のんびりとした動作で腰を上げた。
そばに店を出していた露店で杖を買い求め、問題の人だかりに近づいていく。
「ちょいと旦那方。およしなさいよ、困っているじゃありませんか」
あっという間に出来上がった人だかりを掻き分けて、すばるがそこに顔を出す。
女にしては少し低めの、それでも男の声には聞こえない声に、男たちは興味を引かれたのか、そろって振り返った。
その視線を引き受けたのが、藤色の着物を着た美女であることに、少しは驚いたらしい。
いちゃもんつけられた商人の男がすばるの見知った相手であったことに、すばるもまた驚いていた。
「何だ、女。我らは士族ぞ。何ぞ文句があるか」
士族は士族でも名前だけではないか、とはさすがにすばるも言わない。
その代わり、まわりから野次が飛んだ。
明治の世になり、身分制度は法令上撤廃されているのである。
士族であろうが華族であろうが、民衆には関係のない話であった。ただ、昔は偉かった人たちでしかない。
同じ士族でも、今でも偉い人というのは尊敬されているのである。藤堂弘一郎然り、上野の道場主然りだ。
助けてくれ、と知り合いの商人に目で訴えられて、すばるはにっこりと笑って見せた。
「別に持ち物が壊れたわけでも怪我をされたわけでもありませんのでしょう? 引き下がってはいただけませんか。それとも、痛い目を見ないとわからないとでも仰せですか?」
痛い目だと?
すばるがそう言うのに、彼らは馬鹿にしたように笑い飛ばした。
仮にも士族である自分たちに痛い目を見せようというこの女の言葉が、おかしくて仕方がないらしい。
「痛い目とやら、見せられるものなら見せてもらおうか。自信がないのなら、逃げて帰っても良いのだぞ。今ならまだ聞き逃しておいてやろう」
わっはっはと勝ち誇った笑いをする男たちに、さすが士族を名乗るだけあって大男たちだが、すばるは少しも気後れするところがない。
先ほど買い求めてきた杖を、ゆっくりと持ち上げた。
もう片方の手には、押し付けられた見合い相手候補の釣り書の束が風呂敷に包まれて抱えられている。
つまり、自由になるのは杖を持っている片手だけだということで。
「誰からでも、かかっていらっしゃい。それとも、こちらから行きましょうか?」
「女だからといって手加減はせぬぞっ」
やっという掛け声とともに、男たちは一斉にすばるに襲いかかる。
喧嘩相手というよりは、手篭めにしてやろうという意思がありありとうかがえた。
この状況、誰がどう考えても女の行動は無謀であるとしか言いようがない。
ここに集まった野次馬たちも、襲っていく士族崩れたちも、そう確信していた。
だが、次の瞬間、その確信はあっさりと覆された。
すばるのまわりにいた人が慌てて逃げ出していくそこへ、大男が五人、襲いかかってくる。
まず先にすばるの杖が届く距離にやってきた左手の男を下段に構えていた杖で股間を狙って突き上げる。
そのままぶんっと右に払って右手の男の腰に思う様叩きつけた。これで二人。
ふっとんでいく男に目もくれず、後ろに引いた杖を真っすぐ突きだす。とっさに後ろに飛んだ目の前の男も、思った以上に深く突かれて逃げ切れず、腹を突かれてふっ飛んでいく。三人目。
驚いて思わず仲間が飛ばされるのを見送ってしまった右手の男は、すばるがそのまま杖を右に払ったのに気づくのが遅れて、がら空きだった腋を打たれてすっ転ぶ。
残る一人は右上段に構えられた杖に袈裟掛けに叩き伏せられて地べたに接吻した。
この間、わずか四秒。
まさに一瞬の出来事であった。
男たちも、どうやってこんな結果が導き出されたのか、いまいち納得できていないはずである。
覚えていろ、などというありきたりな台詞を残して、男たちはあたふたと逃げ出していく。
野次馬たちもすっとしたような顔をしてそれぞれの道に戻っていった。
向こうから喧嘩と聞いて警官が走ってきたが、跡形もなくなっているのに首を傾げて帰っていく。
まさかそこに残ってうずくまっている商人の男を介抱している女が喧嘩の片割れとは思わなかったらしい。
一分もすると、そこで喧嘩があったことすら忘れ去られていた。
「大丈夫? 田中屋さん」
そこらに散乱している田中屋の荷物を拾い集めてやって、すばるはやさしく声をかける。
助け起こされて、田中屋はぺこりと頭を下げた。
「いや、すばるさんがいてくれて助かりました。ありがとう」
「いいえ。困ったときはお互い様ですよ。これからどちらへ?」
「店に帰ります。よろしかったらご一緒にいかがです?」
「では、お言葉に甘えて」
答えを返して、くすくすとすばるは笑った。田中屋の横に並んで歩きだす。
この田中屋の息子も、藤堂一心流の道場に通う門下生の一人であった。今年で数え十二才になる。
明治になると、護身術の一つとして剣術を習う商人の子供が増えてくる。田中屋の息子荘太もその一人というわけだ。
すばるの場合一方的に知られている相手というのもかなり多いのだが、この田中屋はそういう意味では知り合いという関係であった。
「いや、それにしても、お強いですね、すばるさんは」
「あらあら。誉めても何も出ませんよ?」
そう言ってすばるは楽しそうに笑った。
その手に先ほど買い求めた杖がない。いつのまに譲ったのか、腰の曲がった老人がその杖を持っていた。
すばるには無用の長物であるそれも、老人にとっては有り難い歩行の補助になるのである。
となれば、譲ってあげたほうが良いというものだ。
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