壬生狼(みぶろ) 1




 東京の下町、浅草。浅草寺から歩いて数分の距離に、その道場はある。

 明治九年に発布された廃刀令から、腰に武士の魂を提げて歩く姿は、当然ながらまったく見なくなり、剣術道場でも門下生の足が遠のきつつある中、この時代にあって数年中に勢いを増している珍しい道場だ。

 すべては、道場の師範代を務める美人剣士のおかげであろう。名を藤堂すばるといい、道場主弘一郎の愛娘にあたる人物だ。

 この女性が、文武両道才色兼備、どこをとっても非の打ち所の無い美人で、道を歩けば穏やかな物腰が評判になり、一度剣を取れば自分より一回りも二回りも大きな体格の大男をばったばったとなぎ倒すというのだから、道場の看板娘には文句無い適任だ。

 そんなわけで、今日も今日とて、すばるさんに叩きのめされたい、もとい、稽古を付けてもらいたいという若い男たちで、道場は賑わっていた。

 といっても、すばるは幼い子供たちの相手が主であり、稽古を付けるのはもう一人の師範代、斎藤八十助の仕事だったりする。

 その日は、実に天気の悪い日だった。景気の良い江戸っ子たちに言わせれば、しとしと肌を濡らす雨よりはざっと降ってくれた方が気持ちが良いというものだが、それにも限度というものがある。何もタライをひっくり返さなくともよいものを、といった土砂降り雨だった。

 一人の客人が、稽古の始まった道場の門を叩いた。

 道場の中は汗の臭いで充満し、しかも蒸れるため、少しの雨ならば換気のため戸を開けておくのだが、その日はさすがに叩きつける雨を避けるように、戸を閉め切っていた。

 その戸が遠慮がちに叩かれるのを聞き取ったのは、まだ幼い年齢の少年であった。中央で行われる練習試合の観戦で全員が輪になっていたので、その時そこに少年がいたのは単なる偶然だろう。

 客の応対をして少年が向かった先にいたのが、すばるだった。

「師範代。お客様です」

 客はおそらく名を名乗ったのだろうが、少年はその名をすばるに伝え損ねた。そして、すばるの方も相手が年端も行かない子供であることを考慮し、その名を尋ねなかった。

 それが、すばるが客の応対に出向いていったそこで、カチリと固まってしまった理由だった。まぁ、名乗りを聞いていたところで、反応は同じだっただろうが。

「初めてお目にかかります。杉村義衛と申しますが、主はおいででしょうか?」

 驚いた表情で固まってしまった彼女に不思議そうな顔をしながらも、取次ぎを頼む彼に、すばるはしばらく反応を返せなかった。

 ひらひらと目の前で手を振られてようやく我に返り、すばるは慌てたようにその場で足踏みをすると、もう一度顔を上げて客をまじまじと見つめ、失礼とは知りながら、大声をあげないわけにはいかなかった。

「な、なな、永倉さんっ!?」

 何しろ普段から沈着冷静で常に微笑を絶やさない観音様のような人だとまで言われているすばるの、この反応である。道場内がシンと静まり、練習試合の手が止まるのも仕方の無いことだった。

 昔の名を呼ばれた客人はといえば、それが明治政府から敵と目されている人物の名であることもあって、とっさに身構えた。

 名乗った杉村義衛という名は、維新戦争後婿養子として入った旧松前藩藩医の姓に、新しい人生に付けた名を合わせたもので、偽名ではない。が、その名から昔の名を導き出せるほどに知れ渡ったことでもないのだ。それが、東京の下町で言い当てられたとなれば、警戒して当然だ。

 反対に、その名を言い当てたすばるの方は、ようやく驚愕も落ち着いて、にこりと笑って見せた。

「やだな、永倉さん。そんなに警戒しないでくださいよ。ここじゃなんですから、奥へどうぞ」

 玄関はここではなく、通りに出て角を曲がった先にあるのだが、この土砂降りにまた戻るのも考えもので、すばるは道場の奥へと促した。門下生たちも心得たもので、すばるがそこを通りたがっていると知れば、ささっと場所を移動して道を作る。

 試合の監督をしていた八十助は、すばるの目配せを受けて頷き、屋敷に入っていく二人を見送って、高らかに手を叩いた。

「さ、練習再開するぞ」

 まだ昼過ぎたばかりの時間帯。突然の出来事は門下生たちに話題を与えるものだったが、まったく動揺した様子の無い八十助にしたがって、稽古に戻っていった。





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