伍の4
開け放たれた奥の部屋から、何事か音がして、はっとすばるは振り返った。
慎重に近づいていく。
中で、少女の姿をした伊藤がベッド脇の棚を探っていた。
この辺に置いたはずなのだが、などという独り言がぼそぼそと聞こえる。
戸口に立って、しばらく探し物をする少女の後姿を見つめ、すばるはひとつため息をつくと、手近な壁に寄りかかった。
その壁は案外もろいらしく、さして体重をかけないでも、ぎしりと音を立てた。
壁のきしむ音を聞きつけて、伊藤ははっとこちらを振り返る。
その視線の先には、腕を組んだ姿勢でこちらをじっと観察するすばるの姿があった。
「探し物は見つかった?」
「お、お前っ! どうやって……!?」
その狼狽振りは、よほど驚いたのであろうことを顕著に示していた。
それだけ、自分の魔術に自信があったということだろう。その根拠が知れないが。
「俺には強力な守護霊が憑いてるからね。何をしたって無駄さ。死神までも追い払う人に、あんたが対抗できるとも思えない」
「守護霊だと。何を馬鹿な……」
「魔術なんていかがわしいものを自信満々に使ってみせる人に言われたくないけどね。さて、そろそろ覚悟は良いかい?」
そう、長々と語らっている暇など、すばるにはない。
さっさと決着をつけて、早く家に帰りたい。それが、本音だ。
それに、仲間たちも急いで助けなくては、手遅れになりかねない。自分より、術にかかっている時間が長いのだ。
その部屋は、シャンデリアのある隣の部屋よりはずっと狭い。
その上、大きなベッドがその大部分を占めている。
常識で考えれば、この部屋で刀を振り回すのは無謀に等しい。
だが、すばるはそんな常識をまるで無視して、左手に掴んでいた自分の刀を抜いた。
良く研ぎ澄まされた刀が鋼拵えの鞘と擦れあい、金属的な音を立てる。
びくり、と伊藤はらしくなく肩を揺らした。
すばるの周囲は隙だらけに見えるのだが、それでいて、どこを突けばよいやらわからない、微妙な隙のなさだ。
すばるの表情はほぼ無表情で、それがまた、恐怖を誘ってくる。
ふと、すばるが片眉を上げた。
「そうそう。一応聞くけど。あの術を解く方法は?」
「……誰が教えるか」
「だと思った。別に良いよ、何とかするから」
そもそも、土方の力を借りたとはいえ、自分がそれを受けて破ってみせた物だ。
術を破ることができることは自分の身体で実証済みなのだから、どうしてもこの男から解術の法を聞き出す必要もない。
突き放すように言ったすばるは、それから、寄りかかっていた壁から身体を起こすと、一歩前に足を出した。
同時に、伊藤も一歩後ろに下がる。
何しろ、現在伊藤は丸腰だ。手近に得物がない。
この状態ですばるが切りかかれば、武士としての道理を疑われることになるはずだが、気にしていないのか、すばるはその殺気を隠そうともしない。
それから、軽く肩をすくめた。
「そういえば、あんた、さっき変なこと言ってたね。『鬼姫』の名前の由来、もしかして知らないの?」
あんなに有名なのに、と、本人がさも不思議そうに言う。
その言葉を伊藤が呟いたのは、すばるが術にかかっている間のことであって、すばるにその言葉は聞こえていなかったはずだが。
それとも、無意識の中にも聞こえていたのだろうか。
すばるが言う突込みを、伊藤はこれまた不思議そうな表情で受ける。
軽く首を傾げた。その仕草は、容姿と仕草が程よく合っていて、なんだか可愛く見えてしまうのだが。
「俺の顔を見て、あの時代に、美人だなんて評価を下した人はいないんだけど? それは、うちの彼氏も含めてね」
「……ならば、何ゆえに『姫』と……」
「あのねぇ? 男に『姫』といえば、男娼のことでしょうに」
呆れたように、ため息混じりにそう答えを返して、軽く首を振る。
それは、本来であれば隠しておくだろう、彼にとっては恥ずべき事実なのだが、すばるにとっては恥ずかしい気持ちになるものではないのか、実に淡々としたものだ。
それに、何故この時にそんな種明かしをするのかも、わからない。
実際、伊藤はそんなすばるの言動の意味がわからず、多少混乱した表情だ。
だが、伊藤の不思議そうな表情を見て、またもすばるは呆れたため息を連発する。
「まだわからない? あなたに、俺は警告してるんだよ。この場所は、あなたにとっては不利だって」
「……は?」
「はっきり言おうか? 俺は『鬼姫』。男娼に身をやつす人斬り。俺の主な仕事場は狭い寝室なの。こんな刀も振り回せない場所にいたら、あなたに勝ち目はないってことだよ」
鞘から抜いた刀を肩に担いで、トントン、と肩を叩きながら、すばるは自信たっぷりに言ってのける。
その立ち位置はさりげなく出口を塞いでいて、どうやら退路を塞いでいることによる余裕であるらしい。
それに、すばるの言葉の意味を測りかねている伊藤に対する、優位の立場も自信の元だ。
そうは言っても、すばるの得物もまた、今の姿で少女が持てば抱えるしかなさそうな大きな太刀である。
その条件では、対等のはずなのだが。
「ふん。異なことを言う」
「あら、そう。じゃあ、後悔は地獄でしてもらおうか」
とん。
それが、すばるがその行動の中で最後に立てた音だった。
まるで体重がないかのようにふわりと宙に浮き上がり、あっという間に伊藤のすぐそばに音もなく降り立つと、手に持った刀を振り下ろす。
それを大きな動作で振れば、確実に天井に突き刺さるはずなのに、一体どうやったというのか、上段からそれは襲ってきた。
間一髪、伊藤はその凶刃を持っていた短刀で受け止める。
いや、受け止めたはずだった。
だが、あの幕末の動乱を生き抜いた太刀とにわか使いの短刀では、勝負になるはずがない。
受け止めた短刀は、あっけなく二つに割れて落ちてしまった。
その太刀筋は、そのまま振り下ろされたならば、伊藤の身体もすり抜けているはずで。
すばるの器用な腕が引き下ろした刃は、部屋を照らす明かりを反射して鈍く光っている。
人を斬った刀ならば、光を反射することはない。
とりあえず、予想外だったその一撃を免れたことに、伊藤がほっとした息を吐いた途端。
ずるり、と手元が滑った。
「ひぃあああぁぁぁっ!!!」
それが床に落ちた音と、少女の悲痛な叫び声と。
一体どちらが先だったのか。
少女の華奢な手首が、短刀の柄を逆手に掴んだまま、床に落ちている。
すっぱりと切れたその切り口はあまりに滑らかで、その筋組織や骨の内部までが良く観察できてしまう。
それも、しばらくすれば吹き出してくる血しぶきで覆い隠されてしまった。
落ちたその手首に、元々つながっていたところから流れ出る血が降り注ぐ。
そんな肉の塊を、すばるはしかし、特に何の感慨も抱かない無表情で、ただ眺めていた。
そして、肩をすくめる。
「うーん。ちょっと腕が落ちてるなぁ。前だったら、一撃だったのに」
そんなことを呟いているうちに仕留めてしまえばいいのに、まるで、そうして伊藤に聞こえるように呟くことでさらに恐怖をあおっているようだ。
それから、いまさらのように、すばるは伊藤の顔を覗き込んで言った。
「今命乞いすれば、助けてあげなくもないけど?」
「……うぅっ」
言葉にならない痛みをこらえつつ、目だけははっきりとすばるを睨み付けてくる。
それを受けて、すばるは軽く首を傾げたが、すぐにくすりと笑った。
「あっそ。じゃあ、あの世へお先にどうぞ」
あくまで軽い口調と共に、だらりと下げた手で持っていた刀を、横に一閃する。
ただ、光が一筋、そこを通り抜けただけのようにも見えるが。
とん、と軽く少女の肩を押す。
と、腰から上が、まるでダルマ落としの要領で、その向こうへ落ちた。
少女の顔には、恐怖や痛みではなく、驚きが張り付いていた。
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