伍の2
薄れていく意識を、感じたはずだった。
ふと気がつくと、すばるは自分の意識が思ったよりしっかりしているのがわかった。
名前を呼ばれた気がして、目を開く。とても、懐かしい響きの声だった。
『総』
「……とし、さん?」
それは、この明治の代にあるはずのない、懐かしい景色だった。
壬生の屋敷の縁側で、暖かな日差しが差し込み、いつものように愛しい人の姿がそこにあって。
「夢……?」
そう、きっと夢を見ているのだ。そうでなければ、こんな幸せな一時を、自分が味わえるわけがないのだから。
戻らなくちゃ。そう思った。
一瞬だけ。
こんな幸せは、もう二度とない。
この屋敷も、この日差しも、この人の姿も、その穏やかな眼差しも。
すばるには二度と取り戻せない。
戦乱で、すべてを失ってしまっていたから。
それが、夢だとわかっていても、目の前に再現されている。
この幸福を捨てる勇気は、すばるにはない。
この幸福を捨ててまで、現実の世界に戻る理由が、すばるにとってはなかったから。
もちろん、今偽装の父を演じてくれている弘一郎や、自分のツテで巻き込んでしまった正己や、まだ未来のある若者の八十助を置いてきてしまったことに、いくばくかの罪悪感はある。
けれど、それらを差し引いても、すばるはこの場所を選びたかった。
だって、この人がいる。
『おいで、総』
「歳さんっ! 会いたかったっ」
その胸に、飛び込んでいく。
自分とそう変わらない優男の彼の、それでもすがりつきたくなる頼もしい胸に、その身を預けたくて。
夢だと、わかっている。それでも。
夢でも良いのだ。その姿を、見られるなら。いつまでも、ここにいたいくらい。
「もう、離れたくないよ」
『それは駄目だ。現実の世界に戻らなければ』
え?
そう、問い返した。
自分の姿を見下ろせば、夢の中でくらい自分も昔の自分に戻りたいのに、横浜にやってきたときの袴姿のすばるのままで。
「どうして? 夢じゃないの?」
『ここは、総の意識の中。夢といってもいいだろうね。だが、私は総が作った虚構ではないよ』
何を言っているのか、すばるにはさっぱりわからない。
この場所はすばるの記憶にある幸せの場所だし、ここにいる恋人はその頃の若い姿そのままだし。
夢だとしか思えないのに。
『総の夢の中に、会いに来たんだ。総を助けるために』
「助けてなんて欲しくないっ」
助けられるということは、またこの場所を離れなければならないということ。
せっかく会えた愛しい人の姿を、また見られなくなるということ。
だったら、このまま死んでしまっても良い。
今の幸せな気持ちのまま、消えてなくなってしまいたい。
恋人のいない現実の世界は、すばるには生き地獄そのものなのだから。
『総……』
すばるの悲鳴のような声に、昔のままの姿の恋人は、土方歳三は、その名を呼びかけたまま絶句してしまった。
ぎゅっと抱きついてくるすばるを抱き起こし、目の端にたまった涙をその指に掬う。
その額に、優しく唇を寄せた。
『ごめん。お前に生きていて欲しいばっかりに、お前を苦しめてしまったんだな』
「だって、歳さんがいない世界なんて、生きてる意味ないもの。ちゃんと知ってたくせに。あなたが俺の生きる理由になってくれたんでしょう? どうしていなくなっちゃうんだよ。約束守ってくれないなら、最初から助けてくれなきゃ……っ」
『総。それ以上は言うんじゃない』
穏やかな、しかしはっきりした口調で、すばるの感情的になってしまった叫ぶような言葉を遮る。
そして、抱き寄せたその華奢な身体を強く抱きしめた。
『ずっとそばにいてあげたい。だがそれは、総の寿命を俺が吸い取ってしまうことになる。私は、もうこの世の人間ではないのだから』
「俺の寿命をあげたら、そばにいてくれるの?」
『私は、総には私の分まで生きて欲しい。その願いは、総を苦しめるだけなのか?』
ふるふる、と思いっきり首を振って、すばるは土方をすがりつくように抱きしめた。
肩口に顔をうずめて、震えている。
泣いているようで、時折すすり泣くような声が聞こえた。
『こんなにきれいな姿ではないのだよ? 死の瞬間の姿を変えられない』
「……首がないとか? 腕がないとか?」
『そこまでではないがね。総を血まみれにしてしまう』
「そんなの。俺は元々血まみれだもの。歳さんの血なら、いくらだって浴びたいよ。あなたを感じられる証拠だもの」
涙声ながら、土方の言う言葉を鮮やかに否定して、それどころか、それを望んで見せるのだ。
それほどまでに、すばるはこの男を必要としているのだから。
土方が気にすることなど、すばるにとっては本当に些細なことで。
『夢の中でしか、会えないのだぞ?』
「今まで、夢の中でだって、一回も出てきてくれなかったっ」
『いつまで生きられるか、わからない』
「寿命が来たら、あなたの所に行けるんでしょ?」
土方の言葉を、すばるは自分の都合の良いように言い換えていく。
そうして、くどい、というように、土方を見返した。
「俺を助けたいと思ってくれるなら、夢の中だけでも、会いにきて。俺を抱いて。愛してるって言って。そうしたら、起きている間はがんばって生きるから」
『本当に、ひどい姿をしているんだぞ。自分で自分を正視できないほど』
「見せて。俺が、癒してあげる」
そんなに躊躇するほどの姿なら、一度この目に見せてみれば良い。
そう、すばるは言う。
自分を誰だと思っているのだ、とでも言いたげに。
しばらく、すばるを抱いたままじっと考え込んでいた土方は、それから、ふっとその姿を消した。
びっくりして周りを見回してしまうすばるの目に、少し離れたところに背を丸めて座る人影が映る。
十五年前のすばるは嗅ぎなれていた、血なまぐさい匂いが鼻をつく。
『これでも、会いたいと思えるのか?』
それは、確かに土方だった。
身体中に刀傷を作り、肩からわき腹にかけて大きく裂けた傷が目を奪う。
今でも治まらない血が、そこを滴り落ちる。
一瞬だけ、驚いたすばるだったが、それから、痛そうに眉をひそめた。
「まだ、痛む?」
『いや。痛みはない。ただ、流れ落ちる血は、どこまでも際限がないだけだ』
すばるの方を見ようともせず、土方はうつむいたまま、そう答えた。
そのうつむいた視線の先に、すばるの女物の袴が見えた。
反射的に顔を上げた土方を、すばるは反対に、自分の胸に抱き寄せる。
そして、愛しそうにその肌をなぞり、胸の傷に唇を寄せた。
「歳さん。愛してる。ずっと、そばにいて?」
『こんな姿でも、そう言ってくれるのか』
「あなたの流す血にまみれて、あなたの大事なモノで身体の奥まで犯されたい。俺はあなただけのものだから、身体中のすべてが、あなたの物になりたいよ」
『夢の中だけなのに』
「夢の中だけでも、あなたに会えるなら。ねぇ、お願い。もう、これ以上、俺を一人にしないで」
『わかったよ、総。お前の望むままに。夢の中に会いに行こう。だから、今は目を覚ましなさい』
そう。そうして、夢の中の逢瀬を実現させるなら、現状を打破しなければ。
それが、すばるになら可能だとわかるのだから。
土方が愛した男は、この世の誰よりも心が弱く、それでも、この世の誰よりも精神の強い、最強の剣客だ。
その弱い心を支えてあげるから。
出せる力を、惜しまないで。
救い上げたその命を、他人の手に渡さないように。
『おまえにしかできないことだから。お前を思ってくれる仲間たちを、そして、この日本という国を、その手で救って』
目を覚ましなさい。
沖田総司。
私の、愛しい人よ……
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[mokuji]
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