壱の1




 時は明治。文明開化も真っ盛りという頃のお話。

 まだまだ江戸情緒の色濃く残る浅草界隈に、ちょっとした有名人があった。

 美女である。

 名前はすばる。隅田川岸にある剣術道場の一人娘だ。

 藤堂一心流という独自流派を築きあげたすばるの父は、名を藤堂弘一郎という。

 維新の頃は維新派に加わり、数々の功績を残したものの、その後、他の維新志士たちと折り合いが悪く、一人こんなところで道場を開いているものであった。

 維新当時の友人たちとは今でも友好関係を結んでおり、彼らの肩書きが今や政治の中枢に列しているお陰で、東京市中でもなかなか信頼される存在である。
 警察に協力依頼を受けることもしばしばで、一時はその謝礼金で生計を立てていたこともあるという。
 廃刀令が発令されて以来、剣術を真に習おうとするものが激減しているのもその一因ではあった。

 藤堂弘一郎には奥方がない。
 戊辰戦争の折に亡くなったとも、それ以前から行方知れずとも噂されている。

 これまで弘一郎は、すばるという一人娘を男手一つで育ててきたのである。
 したがって、もう行き遅れにもなる年ごろの娘を、目に入れても痛くないほどに可愛がっていた。

 すばるは、この浅草界隈では知らぬ人はいないというほどに人気者である。

 年令を正しく知る者はいない。彼女が本当に藤堂家の一人娘であるのかを知っている人もいない。
 しかし、その存在を知らないものは、とりあえず浅草近辺では一人もいないのである。
 それは、おそらく彼女の実力の為せる業であった。

 何度も言うようだが、すばるの家は剣術道場を開いている。
 したがって、すばるもその門下生の一人であった。
 師範が父弘一郎であるなら、師範代はこのすばるである。
 五年前から、父にかわって門下生たちに稽古をつけていた。

 すばるが有名になったのもちょうどこの頃である。
 だからこそ、すばるの年令を知る者はいないし、本当に弘一郎の子なのかなどと不粋な勘繰りをする者も出るのだ。

 藤堂一心流の道場が賑わいを見せるようになったのは、すばるが稽古をつけるようになった頃からだ。

 それ以前は閑古鳥の鳴き通しであったこの道場も、今では浅草一の大きな道場として知られている。
 それだけ、すばるの影響力は強いのだ。弘一郎が可愛がるのも無理のない話である。




 その日。

 藤堂すばるは父のお使いで上野を歩いていた。行き先はちょうど上野山のふもとにある名門道場である。昔は父につれられて出稽古にも来たことのある道場であった。

 上野山にはかつて寛永寺という江戸市中でもっとも栄えた寺院が存在していた。しかし、今では見る影もない。

 というのも、十五年前の神仏分離令によって廃仏毀釈運動が起こり、堂塔や仏尊などが一部焼き払われてしまったのである。

 それをもったいなく思いながら、すばるは目的地に向かって黙々と歩いていた。

 さらりと長い髪を揺らして颯爽と歩く姿は、道行く男たちの好奇の目を引き、また道行く女たちの羨望の眼差しを受ける。

 キュッと引き結んだ唇は、化粧もなくしてふんわりと赤く、肌は透き通るような白、この頃にはまだ珍しいポニーテールを青紫のリボンで結び、藤色の小袖がまたよく似合う。
 下駄のコロンコロンという音が耳に心地良い。

 この日の用事とは、年に一度約束をしている対抗試合の日取りの相談であった。
 片や名門道場、片や新興の成金道場で、対抗試合が行なえるというのは、やはり道場主の人徳の為せる業であろう。
 今までの長い付き合いとそれなりの実力が、この名門道場に対等の付き合いを認めさせているわけである。

 用事を済ませた帰り、すばるは道場主に呼び止められて奥の間へと通された。
 何事かと身構えるまでもない。最近ここへ来ると必ずと言って良い程にある話である。
 すばるへの縁談だ。

 すばるの年令は、この道場主も知らない。ただ、推定年令は二十二、三ほどであった。
 もちろんこの道場主の見立てである。
 五年前と外見があまり変わっていないすばるは、それだけに年齢不詳なのだ。
 が、まだ二十五にはなっていないだろうと当たりをつけると、このくらいの年令が妥当であった。

「すばるさんも、そう頭ごなしに拒まないで、少し考えてご覧なさい。もう二年もすると、誰ももらってくれなくなってしまいますよ。女子の幸せはやはり夫婦になり家を守ることです。よく考えて結論を出すことですよ。すばるさんの今の年でも、もらってくれる人はきわめてまれなことなのですから」

 そう言って押しつけられた見合い相手の釣書には、嫁の来手のない士族や没落商人の名が列ねられていた。

 どれも好色で有名な名ばかりである。つまり、美人との噂で見合いをすすめてほしいと申し出があった人物であるらしい。

 仕方なしに受け取って、すばるは考えさせてくださいと頭を下げると、今度こそ道場を出ていった。
 その表情から脈なしと見取った道場主は、軽く肩をすくめた。いつものことで、いまさら気にもしないらしい。

 道場の門を出たすばるは、その足で浅草へは帰らず、不忍池へ向かった。
 上野へ来ると、必ずこの池のほとりでしばらく空を眺めるのだ。

「もう十五年も経っちまいましたね、トシさん」

 北の空を見上げ、大きく溜息をつく。
 桜の葉が風に吹かれてさらさらと音を立てた。
 すばるのまわりを人々は忙しそうに歩き去っていく。
 すばるだけが、こうして暇そうにぼんやりと座っていた。





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