弐の6




 弘一郎が口をつけずに下ろした湯呑みを見つめ、山県はかなり重そうな口を開く。

「伊藤惣瑞という男を、覚えているか?」

「鬼医者ですか? 確か、伏見で突然剣を振るいだした、狂気の医者ですね」

 正しい答えである。伏見の戦いで先陣に立って働いた人間なら、嫌でも覚えている名前だった。

 敵味方を問わず恐れられた、まさに鬼の剣客であった男である。
 敵ならば、覚えていようにももう死んでしまっているだろうから、彼の名を覚えている者は、後方にいて助かった敵か味方側にいた者かであろう。

 弘一郎が後で聞いた話では、伏見の戦いが済んだ後、桂や西郷などによっていずこかへ追放になったということであった。
 論功賞よりも何よりも、味方にも恐怖を覚えさせたその狂い様は、十分に罪であるということで。

 その男がどうかしたのか、と問うと、山県はなぜか大きな溜息をついた。

「帰ってきた」

「……って、どこからです?」

「メリケンだ」

 え?

 一瞬、言葉が出なかった。

 何しろ、遠い海の向こうの国の名だ。中国や朝鮮と言われたほうが、よっぽど現実味がある。
 鎖国が解かれたとはいえ、田舎に行けば行くほど、庶民階級になればなるほど、横文字の国に対する認識が薄くなっていくものだ。
 弘一郎の反応も当然のものであろう。

「国外追放になっていた。あやつはあまりにも人を殺しすぎる。それに、思想的にも危険なところがあったからな。放っておけば、武力を行使して独裁政治もやりかねん男だ。我々に追放理由は十分すぎるほどだったのだが、追放されたほうは納得するはずもないからな。心配はしていたのだが。現実のものとなってしまったらしい」

「どこに追放したんです?」

「上海行きの船に乗せたはずだ。どこをどうしてメリケンに渡ったかは知らないが、さらに厄介なことになって帰ってきた。裏にメリケンの武装商人らしい組織が控えているのだ。迂闊に手を出せば、外交問題にもなりかねん」

 そこまで考えなければならない身分であるからこそ、弘一郎に会いに来たらしかった。
 弘一郎なら、民間人の暴走として始末できるうえに、証拠を残さず片を付けることが可能だと判断した上での訪問だった。
 それだけ、藤堂弘一郎という男を信頼しているのだ。それは、ありがたいと思う。
 しかし、だ。

「山県殿。それは、私を買い被りすぎですよ。私はただの剣客です。しかも、ただ時の運が私に味方をしただけの。失敗したら、どうするんです? この国を、あの男に明け渡しますか?」

「その時は、わが国の軍隊をもって殲滅にかかるしかあるまい。しかし、藤堂君でもかなわないとなると、軍隊を使っても無駄になるだろうし、仮に勝てたとしても対外交渉は今以上に厳しいものとなることは間違いないだろう。といって、伊藤にこの国を乗っ取られては、この国の平和が乱されてしまう。となれば、全力をもって叩き潰すしかあるまい。どんな犠牲を払っても」

 山県の覚悟は並大抵のものではない。それがわかって嫌だと言える弘一郎でもなかった。

 この国の未来はどうでもいいが、道場の門下生たちが伊藤の独裁政治に乱された世の中に生きることになるというのも、許せない話である。

「頼めないか、藤堂君。この日本の未来は君の返事一つにかかっているのだ」

「山県殿は、私が伊藤に勝てるとお思いなんですか?」

「君以外に勝てる人間はいないと思っている。それこそ、二、三十人ほどの軍人が一気に襲いかかれる環境ができるというなら、倒せないこともないだろうが。それほどの相手だ」

 二、三十人ねぇ、と弘一郎は呟く。

 今は自分の娘となっている、元新選組一番隊組長なら、その表現も当てはまるだろうが、自分では無理だ。

 そう感じる。
 そもそも、弘一郎が沖田総司と対峙したのは、わずかに二回。しかも、二回とも弘一郎が敵前逃亡する形で負けているのだ。
 弘一郎より強い人間は、このようにたくさんいるわけである。

「君の娘殿には、頼めないか?」

「すばるですか? ……沖田、ですか。受けるとなれば相談はするつもりですが、望みは薄いと思いますよ。何しろ、政府役人は仲間を殺した仇、ですからね、彼にとっては。我々は、昔は敵でも今は、と割り切ることもできますが、彼にとっては一生の仇です。それは、想像に難くない話でしょう?」

「……そう、だな。今新選組の人間で生存が確認されているのは、彼と斎藤一くらいのもの。仇といわれても仕方あるまい」

 では無理か、と山県は肩を落とす。ここですばるに会って、少し希望が見えてきたところであったらしい。出鼻を挫いて悪かったと、弘一郎は少し反省した。

 それと同時に、わからないということは幸せなことだとも感じていた。

 今弘一郎が言ったすばるにとっての仇とは、心を壊してしまうまでに愛した恋人の仇、という意味だったのである。
 身内を殺されたなどという問題ではない。
 身内、仲間を殺されたというのも、それはそれで恨みの対象だろうが、すばるの場合、恋人を殺されているのだ。
 一生かけても許せるはずがない。

「無理か?」

「引き受けましょう」

 無理だ。わかってはいたが、口では引き受けていた。

 考えがないわけではない。
 伊藤はもともと医学を学んだ男である。つまり、頭がいい。
 したがって、山県がここを訪れたことによって、伊藤にこの場所が知られてしまった恐れがある。

 現政府を相手に喧嘩を売った男だ。この家が元維新志士の家であるとわかれば、関係の有る無しにかかわらず、この家を潰しにかかるはず。
 ならば、引き受けて返り打つしかない、あるいはこちらから打って出るしかないわけだ。

 山県はそこまで考えていたのかどうか。結果的には、自ら足を運んで正解だったということである。

「引き受けてくれるか! 良かった。これで一安心だ」

「安心していただいては困りますよ、山県殿。俺には、勝つ自信はありませんから。やってみようというだけのことです。それから、引き受けるにあたって条件があります」

「……何だ」

「必要経費、出してください。余っている金なんて、ありませんから。それと、もしこの家に被害が出た場合も、その修復費を出していただきます。それでも、よろしいですか?」

「それは当然のことだ。この件は、我々政府の身から出た錆。藤堂君には一切関わりのないことだ。それを引き受けてもらうからには、こちらでできる協力はすべてするつもりでいる。藤堂君には、伊藤惣瑞殲滅に専念してほしい」

 それなら、と弘一郎は頷く。そして、やっと湯呑みに口をつけた。
 維新当時の習慣で、決めたからにはうだうだ考えても仕方がない、と心を落ち着けたわけだが、どうにも不安でいけない。
 うまいと評判の田中屋の羊羹は、食べた気になれなかった。

「それで、伊藤の居場所はわかっているんですか?」

「ああ。といっても、裏にいる武装商人の商館が横浜にあるということくらいだ。それ以上のことはわからない。だから、それについても調べてもらうしかないのだ。何しろ、こちらからの連絡手段はなにもない。伊藤が我々の前に姿を見せたのも一度きり、台場沖にその商館籍の船がやってきて大砲をぶっぱなした時で、それ以来向こうからは下っ端らしい雑魚が紙を持ってくるだけで、こちらからの返事はその者に返事を持たせるしかできない。男を追ってその商館までは辿り着くが、治外法権があって踏み込めないというのが現状だ」

「条約を盾にするとは、伊藤の頭も鈍ってはいないということですか。なるほど、政府役人には手出しのできない相手だ。それ以上はわからないんですか?」

「ああ、まったく」

 お手上げだ、と山県はついでに両手もあげる。
 弘一郎は溜息をつくしかなくて、溜息をついた。





[ 12/39 ]

[*prev] [next#]

[mokuji]

[しおりを挟む]


戻る



Copyright(C) 2004-2017 KYMDREAM All Rights Reserved
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -