弐の5




 初めて日本に鉄道ができたのは、明治五年のことである。
 その距離は、新橋横浜間二十九q。
 そう長い距離ではないとはいえ、蒸気で動く乗り物などはじめて見る日本人にとって、これはまさに画期的な代物であった。

 弘一郎にとってもすばるにとっても、汽車に乗るというのは初めて体験するものである。
 八十助も、乗ったことがない。
 正己も、蒸気で走る乗り物こそ乗ったことがあるが、鉄道は初めてだった。

 全員が、新橋の駅に立って、陸を走る黒い物体を、多少の差はあれ、感心したように見上げていた。
 黒船に乗って商売を始めていた正己などは、あれが陸を走るのか、と別の感慨を抱いている。

「さて。行きますか」

「敵の本拠地へ!」

 やや興奮気味の八十助が声を上げるのに、まわりを歩く人々がくすくすと笑った。
 せっかく入れた気合いをあっさりと抜かれてしまったようで、八十助はがっくりと肩を落とした。

 固い二人掛けに四人は向かい合わせに座り、やがて汽車は走り出す。

 あっさりと出鼻を挫かれて、縁起が悪いったらありゃしない、と八十助は一人ぷんぷん怒っている。
 弘一郎と正己はそんな八十助に顔を見合わせて困ったような表情。
 すばるは駿輔の母に持たされた梨の実を食べやすいサイズに切り分けていた。
 まるでピクニックにでも行くようである。

 ただ、年上三人の横に、いつでも取れるようにと配慮されているような、長い棒状の物が布に包まれて置かれていた。
 当然だが、それぞれの愛刀である。
 これらがすべて、十五年間一度も抜かれていないというところに、彼らの共通の過去が垣間見える。

「はい。切れましたよ」

 皿がない変わりに梨を包んできた手拭にそれを載せると、他三人がめいめいに梨に手をのばす。
 つまりは、いまさら作戦を立てようなどということは考えていないわけだ。
 あっさりしたものである。死ぬかもしれないというのに。

 作戦といっても、何ということはない。
 何しろ四人のうち三人が、剣一つで生き延びてきた男たちである。
 命などはとっくに捨てたものであるし、名を知る人物が敵の主要人物であると知って、負ける気はしていないのだ。
 それに、敵の名は知っていてもどんな人物かわからなければ作戦を立てるもなにもない。

 ただ、八十助は四天王および伊藤惣瑞と一対一で戦わないこと、とだけ決めた。
 師範代とはいえ、道場を襲われたときもあれだけ苦戦したのだ。負けるとわかる戦いに出すわけにはいかなかった。八十助の師として。
 おかげで、八十助だけは抜き身の木刀を持っていた。真剣の扱いは許可していない、というわけだ。

 昨夜の作戦会議で、問題となったのは、八十助の処遇とすばるの服装であった。

 何といっても、すばるは女装をしているわけで、女の着物というのは動きづらいものなのだ。特に足が。肩幅に広げてめいっぱい、ということは、その格好で剣を振るうなど無理であるということ。

 とはいえ、東堂一心流道場に住まう三人は、近所に顔が割れてしまっているから、すばるが本当の姿を晒して町を歩くわけにはいかない。これが大問題であった。

 結局は、男装の令嬢らしい立ち居振る舞いをするということで落ち着いた。
 つまりは、普段の格好で袴をはくということである。
 こうして家族旅行を装うことで、荷物類の不自然さとすばるの格好を誤魔化そうという魂胆だ。

 山登りでもするように見えれば、女が袴ばきでも不自然ではないだろう。木刀や長包みも杖と見えなくもない。

 八つに切った梨は、一人二つずつであっという間になくなってしまった。戦の前の腹拵えにもならない。
 それでも満足した様子で、八十助は軽く伸びをした。

「その四天王とかいう奴ら、強いのかねぇ」

「ああ、強いよ」

 あっさりと答えているのは弘一郎だ。言われて八十助は姿勢を正す。

「俺が知っているのは東郷という男だけだがな。長州の維新志士の中では上から数えたほうが早いという腕前だ。身体が小さくすばしっこいから、余計実戦となると恐ろしいだろうな」

「でも、師範は上から一番目でしょう?」

「いや。下から数えたほうが早かった。稽古と実戦は違うんだよ、八十助。実戦になると自らの命を否応なく賭けさせられる。だから、思いもしなかった人間がいきなり強いということもあり得るんだ」

 ようは考え方である。
 剣術の腕などは、はっきり言えば二の次で良かった。
 誰も彼も、少しまともな稽古を積んでいれば、似たりよったりの腕になる。その中で順位を比べても、しょせんはどんぐりの背くらべ。実戦に対する考え方が、人斬りとその他の違いを生む。

 弘一郎もすばるも、人を斬りたくて斬っていたわけではない。それどころか、誰の血も流さずにいられればどんなにいいか、と思っていた人間である。
 その二人が人斬りという不名誉な二つ名を与えられた理由は、自分が生き残るためなどではなく、他人のために刀を振るっていたからだった。

 自分の命は誰かを守るためにあったのである。
 弘一郎は長州の維新志士たちを守るため、すばるは愛する土方を守るため。
 それだけだったからこそ、不敗であったのだ。

 名誉だの正義だの理想だのとうだうだ考えているような人間だったなら、この二人、今頃この世にはいなかったはずだ。他人のために刀を振るっていたからこそ、人を斬ることも割り切って考えられたのである。

 この二人が、人を斬ることに罪悪感を抱かないわけがなかった。こんなにも優しい目をしているのだから。

 その意味でいくと、伊藤惣瑞という男、自らのために、人を斬ることに何の痛みも覚えず、人斬りであった人間である。
 弘一郎やすばるとはまったく違ったタイプの男だ。
 自分の野望のためなら、人はいくら死んだって当然のこと。
 とりあえず、人間としての倫理感は完全に欠落した人間であることは間違いなかった。

「そういう人間は恐ろしいんだよ。何をしてくるか、わかったものじゃないからね」

 しみじみと、正己がそう言った。正己は、自分のために刀を振るって生き残った人間だ。しかし、生き残ったことを悔いている人間でもあった。

 他人を殺したばかりか、自分の身代わりにしたてあげたのである。
 生き残るためとはいえ、大変なことをしてしまったと、正己は今だにその行為を悔いていた。

 その後悔の念が、正己を勝家にとどまらせていた。
 死ぬことは何の解決にも結びつかないと、わかっているから、どうしようもなかったのである。

 それぞれがそれぞれに暗い過去を持っている三人の先輩たちを見やって、八十助は自分の小ささを思い知っていた。

 すばるの正体は沖田総司で、弘一郎は人斬りだった男で、ということは頭で理解していたはずだった。
 だが、こうしてまったく違うタイプの人間を目のあたりにして、身近だった存在が急に遠く見えてしまったのである。

 彼らに比べれば、自分など取るに足らない、どこにでもいる普通のガキにしか見えない。その認識が、突然背にのしかかってきた。

 ずん、と暗くなってしまった、正己から見れば十分少年で通用する八十助の頭を、正己は軽くぺたぺたと叩く。叩くというよりは、どうやら撫でているらしい。八十助が驚いて正己を見やった。

「そう暗い顔をしなさんな。何も心配することなんてないから」

「そうそう。八十助さんは八十助さんのままでいいんですよ」

 ねぇ、とすばるが偽父の顔を見やる。弘一郎は軽く肩をすくめた。

「その二人の足手纏いにだけはならないようにな」

「あ、藤堂さんってば、意地悪だなぁ」

「頑張れくらい、言ってやりなさいよ」

 死んだはずの人二人にそう言われて、一人だけかなり年上に見えている弘一郎は、誤魔化すようにから笑いをしてみせた。

「ところで、山県卿からは、伊藤惣瑞という男の現在の人物像について、どのように聞いているのです?」

 今現在、すばるも正己も八十助も、伊藤惣瑞という男の具体的な人物像はまったくわかっていない。
 というのも、人斬りという事実とメリケン帰りで現政府を狙っている男としか知らないでも、十分に命を賭けるに値するからだった。
 まず、弘一郎が引き受けたということに対する信頼が大きい。

 まだ横浜に着くには十分な時間がある。
 弘一郎は、山県から聞いた話を事細かに話すことにした。





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