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 お散歩、といっても、四本の足のうち一本が欠けているケン坊は、歩くだけでも大変そうなので、長距離を歩くときは俺が抱き上げる。その代わり、公園では走り回らせてやって運動不足解消、と言うわけだ。それは、ケン坊が自分のペースで歩けない状況だと、かなり危険だから、っていう理由だったりする。

 いつものように両手でケン坊を抱き上げて、まったく使わない伸縮性のリードはすべて巻き上げて手に持ち、トイレ用のふくろとシャベルも持って、準備万端で家を出る。

 すぐ近くの森林公園が、いつものお散歩コースだ。この時間だと、近所の奥さんたちが愛犬を連れて散歩に来ていて、その中にはケン坊のお友だちも含まれている。遊ばせるには良い時間だ。

 玄関を開けたら、ちょうどお隣でも、タイミングよく玄関が開いた。引っ越してきた当日にご挨拶をした以来の、まったく顔を合わせないお隣さん。ケン坊は、俺の腕の中でちょっとびっくりしたらしくてビクッと震えた。

 お隣さん、名前を大居岳志さんという。銀行マンで、平日は朝早く出かけて夜遅く帰ってくる、働き者さんだ。

 実は、めちゃくちゃ好みだったりする。けっしてイケメンではないけれど、人が良さそうな温厚な顔立ちで、背が高く、骨太な体格。初恋の人から、一目惚れする相手はこんな人ばかりだ。

「あ、こんにちは」

 ケン坊を抱えたまま、玄関を背中で支えたまま、俺は彼に軽く会釈をした。向こうでも、玄関を閉めながらこちらを見て、頭を下げ返してくる。

 ほぼ同時に俺と彼は玄関を閉めて鍵をかけた。

 エレベーターはお隣さんの家の方角で、鍵をかけた後、そちらに振り向きながら一歩踏み出したところで、こちらに歩いてくる彼に気づき、足を止めた。

 すぐそばまでやってきた彼は、やっぱり背が高い。目の前に、口が見える。

 にょき、と出てきた彼の長い手が、俺の手元に伸びてくる。と同時に、ケン坊が身を縮こまらせた。これは、怖がっているのだろうか。

 ケン坊を撫でるその手が優しくて、ケン坊の体から力が抜ける。その変化が面白くて、俺は一人で楽しんでしまったけれど。

「古島さん、犬、飼ってましたっけ?」

 初対面なケン坊を撫でていた彼は、それから俺に視線を向けて、そういった。慈しむような視線が、ケン坊に向かっているものなのに、俺自身に向いているようで、勝手に胸が高鳴った。

 いや、だから、一目惚れなんだって、この人に。

「もう、半年くらいになりますよ」

「え、ホントに? えらいもったいないことしたなぁ、俺。お隣にこんな可愛い子がいたなんて」

「あれ? 大居さん、犬がお好きなんですか?」

「大好きです! っても、自分じゃ飼えないんですけどね。俺自身が忙しくて、構ってやれないし」

 大好きです!って言った後の彼の悲しそうな顔が、本当に残念そうで、俺は何故だかうれしくなった。腕がパタパタするから何かと思えば、ケン坊がスピード全開で尻尾を振っていた。珍しく喋らずに行動で示すところを見ると、どうやらそれは、大居さんにもわかるように、という配慮の結果のようだ。犬らしくないケン坊の珍しい犬らしさに、俺は思わず笑ってしまう。

「うちのケン坊も、大居さんのこと、気に入ったみたい。私たち、これからお散歩に行くんですが、もし良かったら、ご一緒に、いかがです?」

「……え?」

 とまどったように聞き返されて、あまりにも唐突だった自分の申し出を振り返った。ちょっと唐突過ぎたなぁ、と反省するとともに、はしゃいだ自分が恥ずかしくなって、真っ赤になってうつむいた。

「え、あ、いえ。お忙しくなければ」

「えぇ! ご一緒します。よろしくね、ケン君」

『うん。よろしくっ』

 ケン坊は、ワン、と鳴く代わりに思いっきり尻尾を振って、クゥンと喉を鳴らした。ここは集合住宅だから、さすがに吠えるとご近所迷惑で、飼いはじめた当初に吠えちゃダメだと躾けた結果だ。親バカな自覚はあるが、本当に、いい子だと思う。

「いい子だねぇ」

「苦労してるみたいだから。ね、ケン坊」

『それって真面目に答えて良いわけ?』

 生意気な台詞は出会った当初からだけれど、そんな風に返して、ちょっとダレて俺の腕の中にうずくまる。大居さんの目があるから言葉で返してやることは出来ないけれど、まったく反応しないわけではなくて、ご主人さまとしては、くすくすっと笑って返してやった。

 公園までの道すがら、俺は大居さんの情報を得ていた。ケン坊をダシにして、悪いとは思ってるんだよ、一応。でも、好きになった人のことは、もっともっと知りたいと思う。その機会が訪れたのだから、無駄にする手はない。

 いくら銀行マンとはいえ、まだ若い彼が、比較的高価なこのマンションに住んでいることに、前から実は不思議だったのだけれど、その答えがようやくわかった。

 なんでも、業務勉強の一環で株取引に手を出したら、ちょうどITバブルの波に乗っていたおかげで、ぼろ儲けしたらしい。今も、投資信託でちょっとずつ副収入を得て、ローンを払っているのだそうだ。

 株で生活をするのは、ハイリスクハイリターンでかなり危ない道だけれど、副収入でぼろ儲けくらいなら、有りなんだろうな、と思う。そういう俺も、親の会社とはいえ、一応株主だしね。

 森林公園には、ケン坊のお友だちがすでに来ていて、楽しそうにじゃれていた。向こうのほうに、ハナちゃんの飼い主さんの2丁目の鈴木さんと、ユウスケくんの飼い主さんの相川町の小林さんが、世間話に興じていた。

「ほら、ケン坊。遊んでおいで」

 そういって、俺はケン坊を土の上に降ろした。いつもなら一緒に遊んでやるところだけど、今日はちょっと勘弁して。せっかくの機会だから、大居さんを知ることに時間を使いたい。

『ハナちゃんたちと遊んでくるね』

 俺のそんなわがままを察したのかどうなのか。ケン坊は俺を振り返りながら、そう言った。

 いつもなら、独特の走り方で駆けて行くはずのケン坊は、しかし、俺を振り返ったまま、固まってしまった。立ちすくんだ、という表現がぴったり合う。

 立ちすくんだケン坊は、俺の隣を見上げていた。

『……嫌われちゃう?』

 悲しそうに呟いた言葉で、原因がわかった。俺にとっても目線が上になる隣の人を見上げ、その視線の先を追えば、案の定、ケン坊の足に行き当たった。

 確かに、この足は、珍しいかもしれない。けれど、それは仕方のないことだしね。ケン坊の足に嫌悪する人もいるけれど、そんな人とは付き合わなければいいだけの話だ。

「……気になりますか? ケン坊の足」

「え? あ、いや。あの……。どうして?」

 戸惑ったということは、それに嫌悪した、というわけではなく、ただ単に視線が引かれた、というだけのことなのだろう。そもそも、さすがに片足のない犬を平然と見られる人もいないから、当然の反応だと思う。今まで散々嫌われてきたケン坊は、その視線が嫌でたまらないらしいけれど。

「事故ですって。車に轢かれて」

「半年前から飼ってるって言ってましたよね? じゃあ、その前から?」

「えぇ、そう。どうして好き好んで足欠けのなんか飼うんだ、ってよく言われます」

「……あ〜、それは、まぁ。思わなくはないですけど」

 わざと酷い言い方をする人の真似をしてみたら、その質問がどんなに俺と愛犬を傷つけてきたのかがわかったらしく、困ったように眉をへの字に曲げた。うん、やっぱり、大居さんって心優しい良い人だ。

 ケン坊の足から目が離せなくなったらしい大居さんに、俺は裏話を聞かせる事にした。今までは話したことがないけれどね。きっと、笑ってくれると思うんだよ、この人なら。

「あのね。シェルターの狭いケージの中で、不貞腐れてたんですよ、こいつ。どうせボクなんて、って感じで。だから、連れて来ちゃいました」

 連れてきちゃいました、って、そんな意思はまったくなかったんだけれど、という意味も含まれる。くすっと自嘲を含めて笑って見せたら、大居さんもつられて笑ってくれた。ケン坊から俺に、視線が移動する。

「それに、あの足だからあまり歩き回らないし、悪戯するほど若くもないし、ちょうど良かったんですよ」

「あぁ、そういう見方もありますね」

 納得した、と言うよりは、俺の判断基準が可笑しかったのだろう。笑いながら頷いたので、俺も気分がよくなった。

「ケン坊。遊んでおいで。ここにいるから」

『……ダイジョウブ?』

「そんなに心配しないで大丈夫だよ。ほら、ハナちゃんとユウスケくんが呼んでる」

 ワン、と向こうから鳴き声が聞こえてくるので、多分呼んでるんだろう、と当たりをつけた。ケン坊の声はわかるけれど、他の犬は相変わらずわからないままだからね。想像してやるしかない。

 俺の言葉を信じたのだろう。かすかに頷いたケン坊は、向こうで遊んでいるパグのハナちゃんとマルチーズのユウスケくんに呼びかけながら、絶妙なバランスで前のめりに走っていった。

 ケン坊を見送って、ぼそり、と大居さんが一言。

「バランス感覚良いですね〜。よくあれで転ばないなぁ」

「犬のパラリンピックがあったら、ケン坊、かけっこ一着ですよ、きっと」

 何がツボに入ったのかわからないけれど。大爆笑されてしまった。ま、結果オーライってことで。





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