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 吾輩は猫である、という小説がある。明治の文豪、夏目漱石の代表作ともいうべき作品、だそうだ。

 ちなみに、ボクはそこで、実に憤慨する。大体、何故あの気まぐれ極まりない猫を主人公にするんだ。納得がいかない。

 で、プンプン、と怒っていたボクに、ご主人さまはあっさりと言うわけだ。

 気まぐれだからネタになるんだよ。

 あんまりあっさり言われるから、ボクの毒気はぷしゅーっと抜けちゃうんだけどね。あんまりだよ、ご主人さま。

 ちょっと悲しくて、お仕事中なのはわかってるんだけど、甘えたくて、足元に擦り寄る。すると、ご主人さまはボクを抱き上げて、ひざの上に乗せてくれた。撫で撫でして、また仕事に戻っていく。

 お仕事中のご主人さまのひざは結構揺れる。机に向かってキーボードを叩いてるだけなのにね。

「ちょっと待ってろよ、ケン坊。この行終わったら、散歩に行こう」

(ホント?)

「本当。だから、少しだけ大人しくしてて」

(はーい)

 ボクのお返事は、いつだって元気ないい子。だって、このご主人さまには捨てられたくないし。第一、ボクとお話できるご主人さまってかなり貴重。

 さて、ご主人さまの「この一行」は、結局一行で終わらなくて30分は待つし。

 あたたかいひざの上で、ボクはお昼寝の時間。ぬくぬく気持ちよくて、すーっと眠りに落ちていった。


 ボクの名前はケン。年は7才。オスの柴犬。室内で飼える位だから、身体は普通の柴犬ほど大きくない。くるんと丸まった尻尾の形がボクの自慢で、右の前足が無いのが唯一の欠点。

 ボクの7年間の人生には、最悪の日と最良の日がある。

 最悪の日は、3年前の梅雨の日。その日も朝から雨が降っていた。おかげで今でもボクは雨が大嫌いなんだけど。

 その日、ボクは最初のご主人さまに捨てられた。言うことを聞かないボクに嫌気がさしたんだって。

 その頃のボクは、何にでもキャンキャン吠えたし、ご主人さまなんてボクの家来だと思ってたから、やりたい放題だったんだ。

 今は、ボクを保護してくれた人が教えてくれたから、ご主人さまにこんなに可愛がってもらえるボクだけど、当時は全然。そもそも、しつけって何?って感じだったんだよ。お手も伏せも待てもまったくできなかったし、トイレの仕方とかご飯の食べ方とかお散歩の仕方とか、全然知らなかった。

 手に負えなくなった前のご主人さまは、いい加減イヤになっちゃったらしくて。ボクは捨てられてしまった。車でずっと遠いところに連れて行かれて、たぶん公園だと思うけど、そこに放されて。わーい、お外だーっ、て走り回っている間に、ご主人さまは車でおうちに帰っちゃってた。そういえば、いつのまにか首輪もなかったっけ。

 いつもは自由にしているボクだけど、それでも、ご主人さまがいないとご飯が食べられないことくらいは知ってたから、すごく心細くなったんだ。だから、公園の外に飛び出した。ご主人さまを追いかけて。

 ボクが覚えているのは、そこまで。

 次に気がついたとき、ボクの身体は包帯でグルグル巻きになってて、右の前足はなくなってた。

 それが、最悪の日の記憶。

 その後、ボクは『ペットシェルター』っていうところにいた。捨てられたり傷つけられたりしたペットたちを保護して、新しい優しいご主人さまに会わせてくれるところなんだって。

 ボクをしつけてくれたのは、シェルターの良子ママ。民間のボランティア団体で、その代表者なんだって言ってた。シェルターには、ほかにもスタッフが十人近くいて、みんなとても親切な人たちだった。それに、仲間もたくさんいたから心強かったなぁ。

 本当は、人に飼われるなんて、金輪際まっぴらごめんだ、って思ってた。どうせ、自分の都合で勝手に飼いはじめて手に負えなくなって捨てるんだ。だったら、飼わなきゃ良いのに、って。

 そうやって不貞腐れてたから、なおのこと、新しいご主人さまは見つからなくて、ボクはそのケージの中で2年半を過ごしていた。

 今のご主人さまも、シェルターに犬を引き取りにきたお客さんの一人だったんだ。

 後から聞いた話だとね、ボクをいつも世話してくれたほのかお姉さんを、助けてくれた人だったんだって。ほのかお姉さんはとてもおっちょこちょいで、お散歩でもよく転ぶんだけど。道を歩いていてちょっとした段差に躓いて転んでたところを助けたのが、ボクの今のご主人さま。

 なんでも、それが縁で意気投合して、ちょうどご主人さまは室内で飼える犬を探していて、それだったら、って紹介があったのがシェルターだったらしい。

 そこでなんで恋愛に進まなかったのか、ボクには不思議で仕方ないんだけど。年も近いし、ご主人さまはなかなか良い男だし、ほのかお姉さんもおっちょこちょいだけど美人だし、似合いのカップルだと思うんだよ?ボク。不思議だなぁ。

 まぁ、いいけど。

 その時、ご主人さまが探している犬の条件は、すでにしつけがちゃんと出来ている成犬で、室内飼いできること、だったらしい。成犬を探しに来る人って結構まれで、しかもそういう場合って大体、もっと大型の犬をもらっていくから、ご主人さまの条件はなかなか珍しい。

 今なら、その条件の理由もわかるんだ。すべてはその職業のせい。飼い犬に手をかけてやる余裕は無いけど、アニマルセラピー効果を期待していたわけ。癒されたい、ってことだね。

 ご主人さまのお仕事は、小説を書くこと。作家さんなんだ。

 でも、当時は実に不思議だったよ。小さな犬が好きなら子犬から飼ったほうが可愛いんじゃないの?って。

 どうせ聞こえないからね。思ったとおりにボクは呟いてた。

 ところが。

「え?」

「はい? どうかなさいました?」

「今、子犬のほうが良いんじゃない、って誰か言いました?」

「いいえ。そんなこと、ないですよ。成犬だって、小型犬は可愛いですし。ほら」

 ほら、と指差したのは、今流行のチワワ。千切れんばかりに尻尾を振って、アタシを飼って、ってアピールする、一昨日来たばかりの新顔だった。すでに3人のご主人さまを渡り歩いている4才のメス犬。もう、媚を売るのも慣れたもので。

 でも、ボクは当然、飼われることなんてとっくに諦めていたからね。せいぜい頑張んな、って不貞寝してた。

 そのボクの目の前に、ご主人さまはしゃがみこんだんだよ。それで、金網越しにボクの顔を見つめてた。

「今の、キミ?」

(キミなんて気安く呼ばれたくないね。大体、何だよ。人間に犬の言葉がわかるわけ無いだろ)

「あ、やっぱりキミだ。うーん、何で聞こえるんだろう? 不思議だねぇ。ねぇ、キミ、名前は?」

「え? あの、古島さん?」

 案内していたほのかお姉さんは戸惑ってたみたいだけど。それは実は、ボクも同じだった。だって、ボクの独り言に答えたんだよ、この人。それはもう、驚愕でしょ。

「どうかなさいました?」

「えぇ、いえ。大丈夫ですよ。ちょっと、この子と話をさせてもらっても良いでしょうか?」

「え、あの、話っていっても……」

(うん。ほのかお姉さんの戸惑うのももっともだ。なんだよ、あんた。ボクの言葉がわかるわけ?)

「わかるよ。不思議なことにね。俺もさすがに、犬の声を聞いたのは初めてだよ」

 ホントかよ、って思わず突っ込みを入れてた。それに対して、ご主人さまはけらけらと笑い出していた。

「桑野さん。この子、貰っても良いですか?」

(はぁ?)

「え? えぇ、構いませんけれど……?」

 その時の、ほのかお姉さんの表情は、頭の中?だらけ、って感じだった。それを、ご主人さまはわかってて無視したみたいなんだけど。

「ねぇ、キミ。名前は?」

(……ケン)

「ケン、か。ケン坊、で良いかい?」

(……ボク、足一本無いけど?)

「そうなの? 事故か何か?」

(……車に轢かれたらしい)

「そっか。大変だったね。でも、もう車に気をつけられるでしょ? もう痛い思いしたくないもんね?」

(その程度のことか?)

「その程度のこと。ケン坊、一緒においで」

(……)

 おいで、と言いながら、ケージに両手を差し伸べられて。ボクは正直、戸惑っていたけれど。あんまり無邪気にご主人さまが笑うから、ま、いいか、って気になって。

 それが、ボクとご主人さまの出会いだった。

 シェルターは、ご主人さまにちゃんと犬の飼いかたを手ほどきしたらしい。ボクをその日のうちに引き取って、その足でペットショップに立ち寄って、必要な道具を一式買い揃えた。ペットトイレとご飯皿と首輪とお散歩用のリードと。

 初めて行ったご主人さまのおうちは、大きなマンションだった。小型ペット可、っていう条件付で、オートロックの玄関脇に、ペット用の足を洗う蛇口まで完備。すごい、ってちょっと感動してたら、何故かご主人さまはうれしそうに笑った。

 お部屋は1LDKの単身仕様。ただし、お部屋が広い。とっても。ボクのトイレはご主人さまのトイレの入り口脇。ボクの寝床はベッドの隣のビーズクッション。首輪は帰ってきてすぐにつけてもらったし、リードは玄関脇の靴箱の取っ手に引っ掛けられた。これで、ボクのお部屋は準備万端。

 どうしてボクにしたの?って、帰ってきて一番にボクはご主人さまに聞いたんだ。そうしたらね、せっかくしゃべれるんだから、こんな珍しいことを見逃す手はないだろ、だって。


 そんな、ちょっとぶっ飛んだ感覚を持ってる僕のご主人さま。名前は、古島恩、っていう。えーと、読み方は、こじまめぐみ。もちろん、男の人。名前だけだと女に間違えられる、って本人は意外と楽しそうに笑っていて、お仕事に使う名前も本名と同じ。

 ご主人さまは、作家と言っても、夏目漱石だとか芥川龍之介だとかいう文豪に並ぶほどの実力はない、と自分で言い切ってるし、実際、書いている対象も一般大衆向けではない。思春期以上の、しかもそういう趣味を持った女性向け、という、きわめて狭いジャンルの作家だ。

 ご主人さまの書くお話は、本来、女性たちのひそかな楽しみ的なジャンルでもあったから、男性作家が本当に少ないらしい。いないわけではないと思うけど、なんて言っていたけれど、下手をすると、ご主人さま一人だ。

 そのご主人さまも、本や雑誌の中では性別を偽っている。いや、偽ってはいないか。誤解されるように仕向けている、って言う程度だ。つまり、性別不詳にしているわけ。ネット上でそれをやったら、ネカマって言われて非難の対象なんだけどね。

 何しろ、作家って奴は、本が売れなくちゃ給料が入ってこないわけで、ここで「男だ」って暴露してファンを取り逃がすわけにはいかないんだって。意外と、変なところで苦労してるよ、うちのご主人さま。

「……う。ケン坊。お仕事終わったよ。……うーん。こりゃ、熟睡してるな。ごめんな、いつも待たせて。飯食ったら、今度こそ散歩に行こうな」

 いい子いい子、とボクの頭を撫でて、ちっちゃなボクの身体を軽々と抱き上げて、ご主人さまは仕事場兼寝室の部屋を出る。ソファにおろされて、ようやく寝ぼけた頭がぼんやり覚醒してきた頃、ボクの鼻をバターが焼ける良い匂いがくすぐった。





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