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 中断したにもかかわらず、仕事は思いのほかはかどって、自分でも驚くくらいの枚数を書いていた。部屋の明かりはつけっぱなしなので気付かなかったが、あっという間に時間は過ぎていき、気がつけば、日が長いはずのこの時期の太陽は、西のかなたへとっくに消え去ったあとだった。

 俺を現実の世界に引き戻したのは、部屋の戸をノックする控えめな音だった。

「古島さん。お食事にしませんか?」

 いつの間に戻ってきていたのか、それは大居さんの声だった。ちょうど一段落してため息を一つついたところだったので、まるで計ったようなタイミング。まさか、俺のため息を聞いて声をかけたわけではないだろうけれど。

「はい。今行きます」

 ふとパソコンの画面の片隅にある時計を確認すると、もう夜の7時を数分過ぎていた。

 自分で戸を開けてリビングに出ると、直後、美味しそうな匂いが鼻先をくすぐった。ホカホカと湯気を立てているそれは、うちには無いはずのカセットコンロの上に乗った鍋。周りにまだ生の肉が用意されていて、テーブルの足元でケン坊が涎を垂らしている。

 っていうか、みっともないよ、ケン坊。

「これ、どうしたんですか?」

「あぁ、えぇと。ケン坊とお散歩に行ったついでに商店街に寄ってみたんですよ。肉屋で薄切り肉の安売りをしてましてね。冬に使い残したガスボンベも使わなくちゃいけなかったし。ご迷惑でした?」

 そう。それは、しゃぶしゃぶだった。ゴマだれを手にキッチンから出てきた大居さんが、少し照れながらそう説明してくれた。

 迷惑なんて、そんなことはまったくとんでもないので、ぶんぶんと、手と首を振った。

「助かります」

「それは良かった。多めに買って来たので、たくさん食べてくださいね」

 鍋の中には食べごろに程よく煮えた野菜が、対流する湯に乗って舞っていた。見るからに、うまそう。

 おっと、涎が。

 急いで手を洗って戻ってくれば、大居さんはすでに座って待っていた。

「ケン坊は?」

「まだですよ。古島さんがお仕事終わるの、大人しく待ってたんだよね?」

 ね?とは、もちろんケン坊に。ケン坊も、恨めしそうに俺を見上げた。

『お腹ペコペコだよ。早くちょうだい』

 普段の食事時間から見れば、まだまだ早い時間帯だけれど。目の前に生肉がちらついていれば、食欲も増進されるというものだ。

 ぱん、と手を合わせて、いただきます、とするのは、小学校の教育か、ご実家のご薫育の賜物か。いつもはしない俺も、合わせて手を合わせた。

 そういえば、肉なんて久しぶりだ。ケン坊、最近強請らないんだもの。

『わ〜い、久しぶりのお肉だぁ』

 多めに湯に潜らせて身が引き締まった肉をケン坊のご飯皿に入れてやったら、ケン坊は実に上機嫌で尻尾を振った。

 っていうか、そんなに言わせるほど飼い犬の好物を与えていなかった自分に、かなり反省。言葉がわかるとついつい気を抜いてしまう。

 こんなんじゃ、飼い主失格かも。

「そういえば、キッチンに段ボール箱が二つ、置かれてますよね。中、覗いてしまったんですが、あれ、非常食ですか?」

 鍋に肉を放り込みながら、大居さんが世間話のようにそう言った。それは、片方はカップめんの、片方はドッグフードの買い置き置き場だった。実に不思議そうな大居さんに、俺はちょっと恥ずかしくて肩をすくめた。

「今日みたいに仕事に没頭すると、食事を忘れてしまうんですよ。二週間くらい買い物に行けないのも珍しくないので、乾物は買い置きしてるんです。あれでもなくなっちゃうことがあるんですよ」

「でも、それじゃ、ケン坊がお腹空かしません?」

「えぇ。なので、お腹が空いたら自分でおねだりに来るように、って、ドアノブに紐かけてるんです」

 ああやって、と指差す先に、先の方はケン坊の牙でボロボロになってきた縄の紐。その紐に、気付いてはいたのだろうけれど、それをどうするとどうなるのかが想像できないらしく、大居さんは首を傾げた。

 となれば、やってみせるのが一番だが。

「ケン坊。部屋の戸、開けてきて」

『ヤダ。今食事中』

 お願いした俺を上目遣いでちらりと見やって、ケン坊はそっけなくそう答えた。拒否されたのは大居さんにもわかったらしくて、くっくっと笑っていた。

「ご飯が終わってからで良いよ」

『ふふん。大居さんの方が話わかる〜』

 こいつ、俺が返事できないのをわかってて、わざとやってるだろ。後で覚えてろよ。

 食後、コーヒーを淹れてソファに移動。二人がけのソファとローテーブルしかないので、ソファに並んで座る。この密着度が、片思いの俺には思いがけないドキドキ感を与えた。触れそうで触れない距離、なんだかもどかしい。

 ケン坊は、当然の顔をして大居さんの膝に乗った。今日一日でずいぶん懐いたものだ。

 食事を終えて気を良くしたケン坊が、器用に紐を口で引いて戸を開けるところを見て、大居さんはしきりに感心していた。賢い賢いと連発する。飼い犬が誉められるのは嬉しいが、相手が大居さんだから嫉妬もした。うーん、複雑。

「明日もお仕事ですか?」

「少し休んだらこれからまた始めます」

「大変ですねぇ。締め切りが近い?」

「いえ。余裕はだいぶあるんですが、調子の良い時に進めておかないと後で辛くなるので」

 作家だという職業は明かしてあるから、こんな質問が来たらしい。なるほど、と頷いている。

 とはいえ、何を書いているかなんて、この人には教えられないでしょ。相手が男性だからなおさら、引かれてしまう。

「徹夜?」

「かもしれないですね〜」

「ところで、そろそろ敬語やめません?」

「大居さんがやめたらやめますよ」

 ころっと話題が変わったのにちょっとびっくりしながら、平然と返してみた。その平然とした様子が意外だったらしい。きょとん、と目を見張り、それから、ぷっと吹き出した。

「いいなぁ、古島さんと話してるとテンポが良くて思わずふざけちゃうんだよねぇ」

「それは、お互い様。きっと、相性が良いんですよ」

「ほら、敬語」

「あぁ、そうだ」

 指摘されて、その言い方がずっと昔からの友だちのようで、俺はくすりと笑った。肩をすくめて照れ笑い。

 その仕草にぽかんと口を開けて俺を見つめた彼の視線で、昔の親友の言葉を思い出した。その仕草、可愛い〜ってからかわれてたんだ。

 まぁ、他の人ならともかく、大居さんならね。これで少しでも俺のことを気にしてくれたら嬉しいな、くらいで。

 しばらく、二人して静かにコーヒーの香りを楽しむ。会話がないわけではない。けれど、こういう落ち着いた空気が、心地良い。

「さて。そろそろ仕事に戻らないと。大居さん、どうする? 時間が許すなら、ケン坊が遊んで欲しいって」

「あ、あぁ、えぇ。お仕事のお邪魔じゃなければ」

「大居さん。け・い・ご」

「……でした」

 でした、も敬語なんだけど。

 それは自分でわかったらしくて、はっとしたように口元を押さえるから、俺は大いに笑わせていただいた。





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