どこかを虚ろに見つめる彼の唇に噛み付く。わたしを見ていないその瞳のなかになにがいるのでしょう。彼がこうしてどこかをぼうっと見つめるたび、わたしもまたぼうっと彼の考えていることを考える。どこかに、置いてきた愛しい彼女でもいるのだろうか。容姿がよくて人柄もいい彼のことだから、女の一人や二人いないはずはない。もしもだけれど、あくまで勝手なわたしの推測だけれど、そうおもうと悔しくてたまらない。最近、彼はいつも情事がおわるとこうなってしまうのだ。もういっそ、こんなところ、来なければいいのに。そのほうが彼女のためにも、わたしのためにもなるのに。そうおもうのは今にはじまったことじゃなくて、それがさらにわたしを落ち込ませた。彼女はどこにいるの?どんな人なの?聞いてみたい、聞けるはずはもちろんないけれど。きっとその人は非の打ち所のないくらい、いい人なんでしょうね。わたしみたいな阿婆擦れとは、正反対の。美人で頭のきれる女海賊かしら。それとも、かわいらしい品のあるお嬢さんかしら。どちらにせよ、金で簡単に売買できてしまう薄汚れたわたしに勝ち目はないのです。


「ね、エース」

「…ん?」


わたしの愛しいひと。一方的な愛だとわかっているけれど、わたしはそれだけで幸せを感じられる。そうおもうから、いつもならここで笑って彼を抱きしめるのだけれど、わたしはぼんやりと返事をする彼の顔を強引にわたしのほうへ向けてなるべく平然と見えるようにふるまった。

「あなた、いつまでここにいるつもりなの?事が済んだのなら早くでていってちょうだい。わたしだって暇じゃないの。お客はあなただけじゃないのよ。」

一気にそう吐き捨てれば、少しずつ見開かれていく彼の瞳。さっきまで映っていなかったわたしの姿が彼の瞳のなかにいた。少しの優越感。それから彼はニヤリと笑ってわたしを抱きしめた。体が熱い。


「つれねェこというなァ、」


わたしはなにも言い返さない。なにか言ったら涙がでてきてしまいそうなのだ。はやく大事な人のところにお帰りなさいよ。お願いだから。


「なにを考えてたか、気になるんだろ?」


「教えてやらなくもねえぜ?」


ニヤニヤニヤニヤしているエースの横っ面を張り飛ばしてやりたい。若干涙でうるんできた瞳をエースから背けながら精一杯冷たく聞こえるように言った。「はやく帰って」声がかすれた。

その瞬間、後頭部をがっしり捕まれてキスされた。エースはもうニヤニヤしてない。真面目な顔でわたしを見ていた。

「おれなァ、最近人恋しくてたまらねェんだ。旅をしてて、ふと気付くと空を見てる。親父に聞いたら、あと一人くれェなら船に乗せてもいいって言ってくれてよ。海賊は欲しいものがあったら我慢せずに奪っちまうもんだとも言われてなァ。いままでおれはなにやってたんだろって、そう思ってたんだ。」


「なァ、おれの妻になってくれねェか」



わたしはそのとき驚いて声もでませんでした。まさかプロポーズされるなんて。わたしにとって物語のなかだけだと認識されていたそれはあまりにも急に、そして飾り気のない言葉でわたしを混乱させました。
うれしさと悲しみが半々にわたしの胸を潰して涙が溢れました。でもわたしは遊女ですよ。わたしでいいのですか。焦らずとも、もっと美しいもっと清らかなお方が世界にはたくさんいますよ。

そう言うとエースは笑って言いました。お前がいいんだ。


そうしてわたしは彼にさらわれ、遊女としての人生に幕をうったのです。




ある遊女のお話。




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