novel | ナノ
恋人手前の二人。







「…雨か」

ぽつりと呟いた言葉すらも掻き消すように、窓を叩く雨音は激しさを伴っていた。昼下がりの空の様相はなく、一面重たい灰色の雲に覆われている。朝にはまったくの快晴だったというのに、その時の名残りを残すものはなにひとつもない。窓の外で日光を浴びさせていた花瓶の花は雨の降り出した当初に中へと急ぎ仕舞い込んだものの、少々濡れてしまって、花弁にのった水滴の所為で、まるで日光浴を邪魔されて落ち込んでいるかのようにこうべを垂れていた。

「洗濯物、干せてないんだけど…」

嘆息。かごの中、三分の一ほどの洗濯物はそれほどの量でもないために、わざわざコインランドリーを使うまでもないと思っていたのだけれど。そしていざ出かけるとしてもざあざあと降り続く雨にその気も削がれてしまう。ああ、せっかくの休日が台無しだ。新聞社も休み、本業である方の仕事も休み。ヒーローにも休日は必要だからね。たまの休日を満喫しようと、午前中に家事を終わらせるつもりが出鼻を挫かれてしまった。買い物にいくのも―めんどう、だ。

「仕方ない」

パンでもつくろう。








―チン。

軽快な音が室内に響いて、はたりと目を覚ました。ふわりと鼻孔を擽った香ばしい匂いに、ああ、パンを焼いていたんだった―とぼんやりした脳が覚醒し始める。オーブンへとパンを入れた後はどうにも暇で、机に突っ伏して寝ていた所為か若干肩が痛い。休日はどうにも体がなまっていけない。ぐ、とひとつ伸びをして欠伸を零し椅子から立ち上がる。ミトンを手につけて、焼き加減を見るべくオーブンのあるキッチンへと足を踏み入れると―

「………」
「よォ」
「………」

すでに開け放たれたオーブンの前にどっかりと腰を据えた人影。こちらに気付けば口に頬張ったパンを飲み込むこともせずひらりと片手を揺らして、なんとも気の抜ける声掛けを寄越した彼に、本日二度目の重い、重い嘆息が、間を置いて放たれた。

「…どうして君がいるんだい」
「オイ、これ味微妙」
「そりゃあまだ発酵させてないからね」
「めんどくせえんだなァ、パン一つに。ねちっこいてめえにお似合いだ」
「どうも」

じゃなくて。

「どうして君がここにいるのか私は聞いているんだよ!あああもうなんで一個一個をかじるかな、無事なのがひとつもないじゃないか!そもそもどうしてオーブンの扉を壊す必要があったんだい、普通に扉をあけることもできないのかってちょっと、土足、土足!こんな雨の日に靴を拭きもしないで土足で家にあがりこむなんて、ああ、もう、きみは本当に常識知らずだね!」

どろだらけの粉だらけだ。土と水滴とで散々汚れた床に、ご丁寧に一個ずつ歯型のついたパン。極め付けにオーブンの扉は無残にひしゃげている。台無しだ。当の本人は悪びれる様子もなく立ち上がりずかずかと冷蔵庫の前に移動して中を覗いている。―腹のすいた犬みたいだ。餌を探し求めてうろうろとキッチンのなかを物色する彼に怒りを通り越して呆れを覚えた。

「…お腹が空いているのかい」
「冷蔵庫、何もないんだな」
「今日はまだ買い物にいってないんだよ」

洗面所からタオルをもってきて床を拭きながら答える。その間も彼は机の上やら戸棚の中やらをうろうろと探し回る。―不法侵入に器物破損、散々荒し回っておいて反省する様子もない彼にどれだけ言っても無駄だろうと、そうそうに諦める。そういうやつなのだ。自分に言い聞かせるように念じた。そういうやつなのだ。

「……チッ、しけてんな」
「双子みたいなことを言ってないで取り敢えず靴を脱いでくれ。このままだと泥のカーペットができてしまう」
「食いモン」
「………………わかった。何か作る。作ってる間に取り敢えず靴を拭いて、その濡れた髪の毛も拭いて、大人しく、大人しく、待っていてくれ」
「がっつり食いたい」

きっと傍若無人という四字熟語は彼のために出来たのだ。間違いない。せめてもの報復として、握りしめていた泥だらけのタオルを彼に投げつけてキッチンへと踵を返せば後ろから下品な単語が聞こえた。




「で、きみは一体どうして来たんだい?まさか、パンの匂いを嗅ぎつけてきたわけでもないだろう」
「もう少し味付けは濃い方が好みだな」
「人の話を聞いてくれ」

かちゃかちゃと品の欠片もなく音をたてて炒飯を口に運ぶ彼は、いまだに少し湿っぽい匂いがするものの大分綺麗になっていた。そのかわりかごの中の洗濯物は半分に増えたけれど。文句を垂れながらも絶えず口に運ぶあたり、相当腹が空いていたのか。少ない食材でどうにか作った炒飯の所為で、冷蔵庫はほんとうに空っぽになってしまった。

「雨」
「…雨?」
「雨が降ってるだろ」
「降っているね。それがどうかしたのかい?」
「…今日はてめえの似非ヒーロー業は休みだ」
似非は余計だ。
「そうだね」
「雨が降ってりゃ家の中にいンだろ」
「まあね」
「だから来た」
「…………」
「…………」
「…………ああ、そう、…うん、」


なんだ。そうか。把握した。


「つまり、私に会いに来たんだろう?」

脛を蹴られた。






「ごちそうサマ」
「……」
「ンだよその目は」
「…いや、ちゃんと言えるんだな、と」
「殺すぞ」
「はいはい」

ぺろりと平らげられた食器を片づけて、ソファを占領する彼と他愛もない会話をする。いつまで居座っている気だ、と普段であれば邪見に扱いもするのだけれど―如何せん。私に会いに来た、と―明確に口にされたわけでもないが、そういった彼を放り出すことも出来ずに、結局は甘んじてしまうのだ。思い起こせば、これでもう通算―何度目か数えるのも面倒になるほどだから、こうなってしまうことは仕方ない。それに、雨のなか腹をすかせて一番に訪ねてくる場所が私の家であったというそれだけで―憂鬱な気分があっさり塗り替わるのだから、たぶん、私は彼の来訪を、心のどこかで待っていたものかもしれない。

「ゆっくりしてきなよ」
「言われなくても」


せめて、雨が上がるまで、雨天の午後を彼と過ごすのも悪くはない。




天の来訪者




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Happy Birthdayうきさん!