かきたいものがかけない
どうせ私はいつか死んでしまうから、私が生きている間だけでいい。私のことを愛してください。
いつしか彼女が僕に囁いた言葉を思い出す。僕が頷けば彼女はとても嬉しそうに微笑んで、拙い発音で僕の名前を呼んだ。それはけして聞き取れたものではなかったけれど、ああ、どうしてこんなにも胸の奥が温まるのだろうと不思議に思ったものだ。どうせ死んでしまうから。そう言って笑う彼女の神経が理解できるわけもなく、口付けも同衾もすることのできない僕に寄り添う彼女のしあわせなど意味のないものにしか思えなかった。それでも、彼女は皺の刻まれた顔をしわくちゃに歪めてしあわせだと呟いていたから、きっと僕は彼女のしあわせと足り得る五十余年を与えることができたのだろう―と、身勝手にも納得することにした。
「―あなたは」 「―あなたは、いつまでもうつくしいままなのですね」 「私が、こんなにも醜く皺だらけになってしまってさえも」 「あなたは、出会った頃と変わらないまま」 「濁ってしまった視界でもよく分かりますの」 「あなたは、とてもうつくしい」 「ああ、」 「ああ、もっと、お顔を見せてください」 「ふふ」
「しあわせ」
「わたし、とても、しあわせよ、ふらんちぇすか」
「だから」 「だから、最後は、あなたの腕のなかで死ぬって、出会った時決めましたの」 「ねえ」 「―を、――くちづけを、」 「わたしは」
「わたしは、あなたに、ころされたい」
ふれた唇はかさかさに乾いていた。 ぬくもりが、ぼくのなかに流れ込んできた。 しあわせだと、しあわせだと、彼女が囁く。 気が狂いそうなほど、あまく、やさしく、彼女の唇のぬくもりはいかに僕と過ごしてしあわせだったかと―語りかけてくる。 すぐに息を引き取った彼女のからだを腕に抱きしめて、ぼくは瞳を閉じる。 しあわせだと。
僕は、とても、しあわせだと。
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