もう慣れたはずの501号室。
見慣れたはず灰色のドア。
入り浸ってた時期だってあるのに、私の身体はドアの前で固まってしまった。
人の部屋の前だから、カーネルおじさんより訳が悪い。

"連絡をしなくても、俺が居なくても鍵を使って入っていればいい"

そう言ってこられたけれど、流石にそれは駄目だと思ったから今まで一の部屋に行く時は必ずメールをしてからだった。

でも一がまるで強要する様に連絡は要らないと毎回言ってくるから、今回はメールをしてない。
所謂アポ無し訪問だ。

昨日電話した時は今日はお休みだと言ってた。
さっきブラインドを確認したら半分まで上がっていたから起きてるはず。
それにもう11時だ。
一はこんな時間まで寝てるなんて私みたいにだらしない生活を送ってないだろう。

でも誰か来ていたらどうしよう。
すごく忙しそうだったらどうしよう。
これから用事があったらどうしよう。
今日は一人でゆっくり休みたい日だったらどうしよう。

足で魔法陣でも描くかの様にその場をくるくるうろうろと歩き回る。

それなら「そっか!急に来ちゃってごめんね。バイバイ!」でその場は済むだろうけど、その先私は多分アポ無しでは一の部屋に行けない。
もしかするとメールまで敬語になっちゃうかもしれない。

出来る事ならそれは避けたい。
このアポ無し訪問を成功させたい。
何処かのお土産でも持っていれば何の躊躇も無しにこのチャイムを鳴らせるのに。

今私は財布とケータイと化粧道具しかバッグに入ってないし、これといって用事は無い。
今、手はチャイムに軽く触れているけれど押せる理由も勇気も足りない。

こんな事ならベタにお菓子でも作ってくればよかった。
余った煮物をお裾分けするのは隣の家の人の特権だけれど、お菓子を分けるのは彼女でもセーフだよね…?

そんな風に解決策の見つからない頭の中の靄を漂わせていると、階段の方から足音が聞こえてきた。

ヤバい、チャイムを撫でているだけこの状態は怪しまれる。
今ここで変人だと思われば、一番困るのは私ではなくてここの住人の一だ。
一に迷惑を掛ける訳にはいかない。

人が来ないうちに、すぅ、と一度大きく息を吸ってから、手汗の酷い左手でチャイムを押した。

ピンポーン

少し間抜けな音が痛々しく響く。
階段から聞こえるコツコツという足音は、私の心拍数よりも遅い。

とりあえず一言目は「急に来ちゃってごめん」だ。
急に来ちゃってごめん、急に来ちゃってごめん…。
急に来ちゃってごめんを何度も何度も反芻する。
6回目辺りで一はまだ?とどうしようもなくそわそわしてきて、私はドアを睨んだ。

開く。そう思ったのはドアの向こうでガチャガチャと音がしたから。

前髪を手櫛で直して、軽く咳払いをする。
よし、腹を括れ、私。
急に来ちゃってごめん、急に来ちゃってごめん!

ガチャと音を立てて、ドアがゆっくりと開く。

「…はい」

「…あ、あの、き、急に来ちゃってごめ…………?」


一瞬誰だか分からなかった。


何故なら一が眼鏡を掛けて、前髪をヘアクリップで留めていたから。


「名前か。おはよう。」

一は私を見て目を見開いた後に春のお日さまみたいに優しく笑い掛けてくれた。
私の心配は杞憂に終わったみたい。
内心安心してホッと息を吐く。
一の笑顔は元から大好きなんだけれど、今日は更に特別だ。
一が前髪を留めてるなんてギャップがすごくてドキドキしてしまう。

一に手を引かれて玄関に入る。
いつだって部屋はどこも綺麗にしてあるし、包む空気が何処と無くいい匂いがする。一の匂いだ。

「一、それ可愛いね。」

「…?何の話だ?」

掴まれていた手をそのまま掴み返して、一のおでこ上にあるヘアクリップを触らせる。

「これ。」

一はそれからヘアクリップを指で2、3往復してからハッと目を見開いた。
徐々に赤くなる白い頬。
今まで留めてたの忘れてたんだ。

「す、すまない。先に座っていてくれ。」

私から前髪を隠す様に一はくるりと後ろを向いて、そう言い残すと洗面所に逃げていった。

「はーい。」

何それ、可愛いすぎ。
私は笑ってサンダルのストラップに手を掛けた。


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