部屋の中に入ると、勿論綺麗に片付いていて、机の上にはノートパソコンとマグカップ、眼鏡ケースしか置いてなかった。
部屋の中に入ってしまえば、独り善がりかもしれないけれどここは第二の我が家だ。
いつも通りソファーの右側に座り、焦げ茶のクッションを膝の上に乗せる。
パソコンで仕事でもしてたのかな。
一は特に視力が悪い訳ではないけれど、パソコンを使う時だけ目が受ける光のダメージを抑える為に眼鏡を掛けているらしい。
ただでさえ"家眼鏡"が好きなのに、一の眼鏡姿は端整な顔付きを更に知的に見せるから大好きだ。
眼鏡を外したら外したで、濃紺の大きな瞳が更に大きく見え、瞬きする度に震える睫毛の長さが如実に分かるから大好きだ。
惚気てしまえば、私は一がどんな格好をしていてもカッコいいと胸をときめかせてしまうのだ。
そんな事を考えながら膝元のクッションを撫でていると、一が洗面所から戻ってきた。
当たり前だけれどもうヘアクリップは外されている。
まだ一捌け顔を赤く染めたまま少し決まり悪そうな表情をする一を見て私はくすくすと笑った。
「え〜、留めたままでいてよ。」
「…断る。コーヒーでいいか?」
「お願いします。可愛いかったのに…。」
男にとって可愛いは誉め言葉ではない、とキッチンで一が呟く。
だって本当に可愛いかったんだもん。
ちょっとチャラかったけど。
"チャラい"なんて一には全く関係の無い言葉なのに、あのヘアクリップのお陰でそんな一も垣間見る事が出来た。
本当、今日来てよかったなぁ…。
「今日は休みか?」
「ありがと。うん、そーだよ。あ、でも学級便り作らなきゃな…」
一が隣に座り、私の前にコーヒーを置いてくれると、豆のいい香りが鼻腔を擽った。
私が砂糖を入れる事までちゃんと把握していて、砂糖とスプーンを持ってくる辺り、流石だ。
一はノートパソコンの電源を切り、ぱたりと閉じた。ついでに眼鏡も仕舞ってしまう。
「明明後日からね、習字始まっちゃうんだよ。だから新聞とビン持ってきてって事と、学級懇談会の事書かなきゃいけないや。」
「学級懇談会か。去年は近づくにつれて元気がなくなっていたな。」
「今年も駄目だよ〜。授業参観の次に辛い!」
考えるだけで寒気がしてきた。
うぅ、考えたくない。考えたくない。
気分が重くなってしまった私の頭を一が優しく撫でてくれる。
「名前もすっかり先生だな。」
「本当?でもね、まだバッッタバタだよ。2年目になるのに。」
一口飲んだコーヒーは私が好きな銘柄で。
一度これが美味しいって話をしたら次に遊びにきた時にはもうこれに換わっていた。
猫舌の私にはまだ少し熱くて、ちょっとだけ飲んでまたすぐに戻す。
「3年も4年も新採用の人が多くてさ、週に1回は新研あるし、講師の人もいるから採用試験の時間ほしいだろうな〜って思って学年主任が私にその分仕事多くふったり『色々教えてやってくれ』とか言うんだよね。
まぁ、当たり前の事なんだけど、私も去年は新研してたのにそんな先輩みたいな事出来ないよって思って。」
「名前が先輩、か…。それは心配だな。」
「えぇ?!そこは嘘でも慰めてよ。」
「冗談だ。」
「いつもは冗談なんか言わない癖に。」
唇を尖らせて一に体当たりをする。
2、3度それを続ければその動きを止めるかの様に一の腕の中に閉じ込められてしまった。
直に嗅いだ一の匂いが心地良くて、私は日向ぼっこをしている猫の様に目を細めた。
多分一には見られていないと思うけど。
「名前が頑張っているのは知っている。」
「ありがと。ちょ、くすぐったいよ」
二人で座るには少し大きなソファーに二人ぴたりと身体を寄せ合う。
外からは車が忙しなく行き来する音が聞こえてくるけれど、ここはのんびりとした時間が流れ、なんだか切り取られた世界にでもいる様な気分になった。
一がイタズラをしてくるのがくすぐったくて身体を逃がそうとすれば、すかさず腰に回っている手が"ここが定位置だ"とでも言わんばかりに一の方へと引き寄せる。
指から手の甲、北上して首元、頬、鼻の先に瞼、額と耳に音を立てながら一の口付けが落とされると私の顔はもう真っ赤っかだ。
そんな甘い雰囲気に緊張して目をぎゅっと閉じながら肩を強張らしていると、一が何故だか部屋の明かりを消してしまった。
ブラインドから漏れる太陽の光で部屋は白橡色に包まれる。
私は何故電気を消したのかが分からなくて首を傾げながらまた他の話を始めた。
「4年生になるとね?何も言わなくても"空気を読む"事が出来る様になるんだって。
3年生持ってた時はここは静かにしなきゃいけない場面だよって言ってきたけどさ、4年生ではそれを気付かせる事が大切なんだよ。
それが難しくて困ってるの。」
「………これは、わざとか?」
「え?何が…?」
「………」
「……?」
少し呆れた様な顔をされたけれど、仕方無いじゃないか、何の事か分からないんだもん。
じぃっと目の中を覗かれて、戸惑いながらも考えてみたけれども分かんない。
「…あんたは4年生以下なのか。」
「またそうやって酷い事言う。…だって分かんないもん。」
「…今はどういう場面か言わなければならないのか?」
「…お願い、します…。」
私がぺこと頭を下げれば、一が小さく溜め息を吐いた。
瞬間、腰に回っていた手が肩へと移動し、後ろへ軽く押される。
私の身体は呆気無くソファーへ倒れ、反動で少しバウンドした。
反射で閉じていた目を開けようとしたけれどもう一度瞑ったのは一の綺麗な顔が鼻先が触れ合うくらい至近距離にあったから。
「…こういう場面、なのだが…」
「…盛ったんですか、ッ…」
一の口付けが一つ、二つと落ちてくる。
寝転ぶとなれば少しこのソファーは狭い。
だから私は身を捩る事も出来ずにいた。
「煩い。…あんたが4年生以下ならば、俺は、猿以下で構わない。」
だから黙れ、とひどく艶やかな声で言われれば、私には頷くしかなくて。
一の首に腕を回せば、薄くて綺麗な唇はゆるりと弧を描き、また何度も口付けをしてくる。
そう言えば前もこんな風にして後から冷めたコーヒーを飲んだな、などと思い出しながら、私は自ら白橡色の世界へ落ちていった。
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