名前を家に送り届けてから診療所へ戻った。
どうやら今日も患者は比較的少なかったらしい。松本先生はもう診療所を閉めようとしていた。
松「おお、お帰り。楽しかったか?」
龍『…はい。』
松「どうしたんだ?ケンカでもしたのか?」
俺はどんな表情をしてたんだろう。
普通にしていたつもりなのに松本先生は怪訝な表情をした。
松本先生がこう思うんだ。
名前もきっと変に思っているよな。
俺は多分舞いあがっていたんだ。
一緒に出かけて、団子を並んで食べて、小間物屋で簪を見てやって。
まるで恋仲のような時間を過ごして。
だけど。
あいつが転んだ時に俺は何もできなかった。
もしも声がでていたら。
危ないと叫んで教えてやれたのに。
そうしたらあいつも転んだとしても受け身ぐらいとれたかもしれない。
今回はただ転んだだけだ。
たいした怪我もしていない。
だけど。
俺はあいつに危険がせまっていても。
教えてやることもできないんだ。
刀もろくにつかえない。
声もでない。
こんなんじゃ、あいつを守れない。
だから。
はやく忘れなきゃ。
あいつの傍にいるべきなのは俺じゃない。
松「井吹君。」
龍『…。』
松本先生は一度考える素振りをみせてから言葉を続ける。
松「君は彼女のことが好きなんだろう?」
龍『…。』
声を出す代わりに頷いた。
松本先生にだけは言ったっていいだろう。
松「何があったか知らないがまた明日にでもゆっくり話をして…。」
多分ケンカでもしたのかと勘違いしている先生に首をふった。
龍『ケンカなんかしてない。俺が勝手に…。』
松「どういうことだ?」
龍『もういいんです。俺じゃだめなんだ。俺じゃ…。』
ひゅうと喉を空気が通り抜けていく。
その音にどんどん情けない気持ちになっていった。
声がでていたら彼女にふさわしいかと言われれば必ずしもそうだとは言えない。
だからなおさら。
声もでない俺なんか彼女の近くにいられなかった。
松本先生は俺が一歩踏み出せない理由がわかったんだろう。
傍にあった湯呑みに水をいれて渡してくれた。一口飲むと口内が潤って喉の痛みが和らいだ。
松「…気持ちを伝えるかどうかは君が決めることだ。だけどね。」
――最初から何もかも諦める必要があるのか?
松本先生の言葉が誰もいない診療所に響いた。
とてつもなくありがたい言葉だ。
龍『名前には幸せになってほしいから。』
そう言って俺は部屋に戻った。
逃げているだけだと言われたらそれまでだ。
それでも彼女が幸せならそれでいいんだ。