ずっとずっと自分には触れられないものだと思っていた。
「しずく。」
その綺麗な青い目に自分が映ることなんて夢みたいなことが現実に起こるなんて思っていなかったし、今だって信じていいのかわからない。いつか夢から覚めるんじゃないかって心のどこかで暗い不安を抱えたまま私は彼の近くにいるのだ。
「しずく?どうした?」 「え?」
頭の中に確かに一の声は届いていたのに私はそれに答えることをしていなかった。少しだけ心配そうに眉を下げる一に私は慌てて返事をした。
「ぼーっとしていたな。」 「考え事してたみたい。」 「それはまた他人事な言い方だ。」 「確かに。でも寝ぼけてたのかな。何考えてたか忘れちゃったよ。ごめんごめん、一、どうしたの?」 「明日は夕方から会議がある。長引きそうだからあんたは先に帰っていてくれ。」 「わかった。ご飯は作っておくね。」 「ありがとう。おやすみしずく。」
もう日曜日も終わりを告げる時間だった。このまま眠って明日になれば私と一は仕事へ行くことになる。同じ職場だけどあえてずらして出勤するのはまだ私たちの関係を誰にも告げていないから。
付き合うことになって誰にも言わないでと言ったのは私の方だった。一はあの見た目なうえ仕事もできてエリート街道まっしぐらなのだ。彼が他の女の人たちに狙われていないわけがない。先輩社員に妬まれるのは目に見えていたし同期だって全員が祝福してくれるわけでもないだろう。そう言えば一はわかったと了承してくれた。 でも本当の理由はそれだけじゃない。私が私に自信がなくて、私が彼のことを全て信じ切れてなかったからだ。
きっといつかくるであろう別れに私自身を粉々にされないように、私は予防線を張っていたんだ。誰にも言わなければ別れが来ても周りは変わらない。そしていつかは別れを告げられると構えていればその日がきてもきっと私は、首を縦に振れるはずだから。
「…しずく。」 「え?」 「本当に大丈夫か?」
おやすみと言ったはずの彼は困ったような、悲しいような目で私を見ていた。私もその目を見つめていたはずなのにどうして気づかなかったんだろう。
「大丈夫だよ、一。実は明日の仕事で少し面倒なお客さん相手にしなきゃいけなくて…憂鬱になってただけ。」 「面倒?…ああ、風間商事の社長か。確かにあそこは少し当たりが強い。俺からも少し考えを…。」 「待って待って。大丈夫だよ。土方部長も一緒だし私も頑張るから!」 「そうか。何かあったらすぐに言ってくれ。」 「ありがとう。おやすみ、一。」
そう言って私は彼の胸元に頬を寄せるように潜り込んだ。そうすればすぐに頭に優しい手が降りてきて何度も撫でてくれる。顔を見せるから心配させるんだ。顔を見るから不安になるんだ。一が時々私に見せる悲しそうな目が何を意味するのかわからなくてそれも私の心に影を落とす要因になっていた。
いつの間にか眠っていた私より先に起きた一は朝食の準備をして先に出かけてしまっていた。テーブルの上のメモは彼らしい綺麗な字が残されていた。
「会議の資料を作るから早く出る。朝食はちゃんと食べろ。…お母さんみたい。」
ふふっと自然にでた笑いに思わず口元を押さえた。彼のことでこんな自然に笑ってしまったのが久しぶりな気がしたからだ。
「それぐらい…最近私は暗いことばかり考えているってことか。」
頭に浮かぶある女の子の顔を打ち消すように私は朝食に手をつけた。
いつも通りの時間に出勤すれば隣のデスクの藤堂君が珍しく先に座っていてニコニコと挨拶をしてきてくれた。
「はよっ!」 「おはよう。どうしたの?早いね。」 「なんだよ、お前もか。みんな俺が少し早く出勤したぐらいで雨が降るとかやりが降るとかひでぇんだぜ?」 「だっていつも滑り込むようにデスクに座るじゃない。」 「そうだけど…まぁ、これからはきちんと余裕をもって行動しようと思ったんだよ。」 「やり…というか雪がふるのかな。」 「おい!」
藤堂君とのやりとりに笑いながらパソコンを立ち上げれば視界に一が入った。コピー機の前に立っているのを見るとおそらく資料は作り終わったんだろう。こっち向かないかななんて淡い期待を抱いていた私を打ち砕くように彼のところに新入社員の女の子が近づいた。一言二言何かを話した後彼女は俯きがちにぽそりと何かを一に伝える。その表情はほんのり赤くてあれじゃまるで…。 一に視線をずらせばいつもクールだなんだと言われている表情ではなく、優しそうな目で彼女を見ていた。
「っ…。」
どうして?なんで?そんな優しい目で彼女を見るの?いつもは必要以上に会話なんてしてないのに、他の人が好意を寄せてもそっけない態度なのに。どうしてその子だけ。 彼女が現れた時から私の中の暗い影はどんどん濃くなって最近じゃ一といる時もそのことばかり考えていた。
「しずく?どうしたー?」 「!」
突然言葉を失った私を心配したのか藤堂君が肩を叩いた。いつもだったら何ぼーっとしてんだよって笑い飛ばしてくれる彼が今日は目を丸くした後眉を下げた。
「お前、具合悪いのか?なんか飲み物買ってきてやろうか?」 「え?いや…そんなこと…。」
ないと言いたかった私は自分の口を自分の手で塞ぐことになる。突然何かこみ上げるような感覚に彼には何も言えずトイレへと駆け込むことになった。 別に具合が悪かったわけでもない。熱もないし吐き気なんてなかったんだ。トイレへついただけで落ち着いたのか私はしばらく個室で休むと自分のデスクへ戻ろうとトイレを後にした。
「しずく!」 「一…?」
デスクのある部屋へ戻ろうと廊下を歩いていると突然一に呼ばれる。どうやら廊下で待っていてくれたらしい。
「一?どうしたの?」 「平助に聞いた。どこか具合が悪いのか?青い顔をして飛び出したと…。」 「大丈夫だよ。大丈夫…。」
一度落ち着いたはずなのに一を見ると同時に彼女を思い出してしまい、また胸が苦しくなる。
「しずく、こっちに来い。」 「え…。」
そう言うと一は近くの倉庫になっている部屋に私を引っ張り込んだ。鍵をかけて奥の棚の方まで歩いていく。
「はじ…。」 「頼む、ちゃんと言ってくれ。」 「一?何を?」 「本当は聞きたくない。ただ、あんたが苦しんでいるなら、それが俺と居ることが原因だとしたら俺は…あんたが別れを切り出しても受け入れる。」 「!?」
私が、別れを切り出す?
「何で…私が…。」 「最近のあんたは俺といる時にずっと苦しそうだ。ぼーっとしていたかと思えばすぐに悲しそうな苦しそうな顔になる。でも俺には何も言わないだろう。だとしたら原因が俺と考えるしかない。俺はあんたをずっと苦しめていたのか?」 「違う!」
一がずっと悲しそうな目をしていたのは、私のせいだったの? 困ったように見ていたのは私が苦しそうだったからなの? そしてそれをずっと自分のせいだと悩んでいたの?
「違うよ…私が悪いの。」 「どういうことだ?」 「私が一を信じ切れてないから。信じるのが怖いから。」 「しずく?」 「あの子と楽しそうに話しているのを見るだけで心が苦しくて。他の人はあんな優しそうに見ないのにどうしてあの子だけ?もしかしたら一はあの子が好きなんじゃないかって。そう考えだしたら苦しくて、辛くて。一が浮気なんてするはずないって思ってる。だからきっと彼女が本当に好きになったら私とは別れるから。いつ切り出されるのかって思ったら私…。」 「あの子…?もしかして雪村のことか?」 「一と付き合えるなんて夢みたいなこと、いつか覚めるんだって思っていてもやっぱり私怖くて。傷つきたくないから信じ切れなくて。でも本当はもうとっくに…戻れないところまで好きになってるのに。」
どうせ別れるなら最後までこんな姿見せたくなかったよ。こんな汚い私、知られたくなかったのに。ぽつりぽつりと涙が落ちてもう一がよく見えない。小さく息をついた一にびくりと体が反応するがそれを消すように一に抱きしめられた。
「はじっ。」 「しずく、今から話すことは他言無用だ。雪村は風間商事の社長と結婚することになったそうだ。」 「…っえええ!?」
ぴたりと涙が引っ込み私はいつも偉そうに笑うイケメン社長のことを思い出す。彼と彼女が結婚!?結婚?!?!?
「許嫁とやらだそうだ。だがきちんと互いに好きになったから結婚することに決めたと今朝彼女が報告してくれた。まだ内密だから他には言うな。色々と相談を受けていたのだ。」 「そ…それで…彼女と話してたの?」 「俺には妹はいないがもしもいたらこのようなものかと思うことはあったが彼女に恋愛感情は一切ない。…安心してくれたか?」 「それは…まぁ。」 「そしてしずく。こんな時にこんな場所で言うのは怒られそうだが後で説教はいくらでも受ける。だから…許してほしい。」 「何を?」 「結婚しよう。」
耳元に落ちたその言葉に私の中で彼以外の感覚が消えた。音も景色も一瞬本当に何もわからなくて、確かなのは抱きしめてくれる一の温もりと声だけだった。
「はじめ…?」 「俺だってあんたと別れる気なんてない。あんたを離してやれるとも思えない。少しでもしずくの中から不安を消したい。ならもうこうするしかない…と思うのだが、ダメだろうか?」
結婚しようなんて。ダメだろうか?なんて。そんなのずるいよ。
「だ…だめなわけない。でもいいの?一、私なんか…。」 「あんたがいい。」 「夢?夢なんじゃ…。」 「現実だ。それでもあんたがこれを夢だというのなら、ずっと夢を見させ続けられるよう努力する。」
優しく目元に触れて涙を拭いてくれる彼をどうして信じなかったんだろう。どうして私は自分のことばかり考えて彼のことをちゃんと見てなかったんだろう。不安だったのは私だけじゃなかったのに。
「一…。」 「しずく…。」
目を閉じようと思った瞬間。ごほんと咳払いが聞こえて私達は同時にドアの方を見た。
「…おおおおおお沖田さん。」 「総司!?」 「二人とも、仕事中にこんなところでイチャイチャしないでくれないかなぁ?ここ確かに普段人こないし内側から鍵かけたんだろうけど用があれば鍵かりてきて開けることも可能なんだよ?」 「ち…ちなみにいつから?」 「一君のプロポーズから。」 「っ!!!」
一の顔が珍しく赤くなったのを見て沖田さんの口角が上がるのを確認した。…嫌な予感しかしない。
「みんなー。一君結婚するってー!楽しみだねー!!!」 「ぎゃあああああ!」 「総司!!!!」
倉庫から勢いよく飛び出して大声を出す沖田さんに負けず劣らず私達も叫んだ。ああ、叫んだとも。 その後土方さんからお説教を二人で受けることになるのは目に見えていたけど…いろんな人におめでとうって言われてうれし涙を流すのはまだこの時は知らなかった。
終
→まかろに様
← / →
|