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「七桜……?」

視線が合って、彼が言葉を発するまでにはおよそ10秒のラグがあった。そのくらい、驚いたのだと思うけど。悪いけど、私もびっくりしていた。

「盗み聞きする奴は性格ブスとちゃうの?」

すぐ後ろから、挑発するような声が聞こえる。口角は上がっているのに、目が全然笑っていない。私は、完全に当事者になってしまった。少しだけ目を伏せて、しっかりと見開いた。

「ウチ、光のことめっちゃ好きやねん。自分なんかよりずっと好き。せやからあげる予定無いんやけど」

そう言いながら、財前君の腕を引っ張る。がっちりとそれを掴んで離さなかった。
分かりやすく挑発されても言い返す言葉なんてなかったし、鞄からスケッチブックを引っ張り出す作業も面倒くさかった。ただただ、目を見る。睨むようになっていたかもしれない。1秒、2秒とそうして、何秒経った頃か、彼女は声をあげて笑い出した。

「七桜サン、なーんも知らんみたいな無垢な顔しよって、腹立つなあ。光とキスできる? セックスは? ウチは出来るよ、好きやもん」
「自分ええ加減に、」

彼女から無理やり離れようとした財前君の身体を、いとも簡単に引き寄せていた。そのまま反転させて、唇を重ねる。唾の絡む音が聞こえる様を、まるで他人事の様に眺めていた。
いや、他人、だったのだけど。
長い口づけが終わっても、私はその場所から、視線すら動かすことが出来なかった。

「光はなあ、気に入った子は片っ端から手出しとんねん。せやけどアンタだけは違う、何がちゃうの? なあ七桜サン、光に何したん?」

何をしたと言われても、答えられるものではない。ぶんぶん、と首を横に振って否定するが、それだけでは満足しないようだった。

「…………ええ加減にせえよ」

私たちの会話を中断するように聞こえたそれは、今まで聞いた事のないような、低く尖った声だった。それに驚いたのは私だけでなくて、気づけば彼女の身体は財前君から少しだけ、離れていた。財前君が、彼女の髪を引っ張って遠ざけたから。
あ、と。声にならない声をあげる。財前君は髪を引っ張りながら、空いたもう片方の手のひらで、彼女の頬を思いっきり叩いた。
体格差だってある、異性からの暴力で、彼女の身体は容易く床に倒れた。もはや何かを考えている猶予なんてなくて、例えばそう、私が今床に落とした鞄から、教科書が散乱したことすら気を遣っている場合ではなくて。とにかく体を動かして、二人の間に割って入る。
そして、もう一発、彼女の頬へ伸びようとする腕を掴んだ。

「放せや七桜!」

怒りが声になろうとした。きっと怒鳴ったと思う。声さえあれば。つまり感情のはけ口がなくて、胸ポケットからネームペンを出して、財前君の制服の裾を捲り上げた。

『ざいぜんくんはぼうりょくしない』

「…………は?」

理想だったと思う。空想だったと思う。妄想だったと思う。けれど、私の中の財前くんは、人に手を上げたりしないのだ。
一番よく知っているようで、一番彼の事を知らないのは私だった。そんなこと、他の誰よりも私が一番理解していた。

彼の腕を乱雑に放し、飛び散った鞄の中身を拾って、踵を返す。
うるさい心臓の音が、雨音を消していた。



雨があがれば虹がかかるなんて、誰が言ったものか。あがったころにはもう夜だったし、私の心の中には雨が降り続けていた。
何となく、感じているものは苛立ちなのだろうと思った。

財前君は、王子様だった。キラキラと輝いていて、底知れぬ魅力で皆を魅了して、そして、何より、格好いい人だった。
けれどそれは、私の頭の中の童話だ。妄想だと思いたくなくて、それで遠くから眺めることで、現実を突きつけられることから逃げていたのだ。
私が好きなのは、財前君だけど、財前君じゃなくて。きっと。ああそうだ。
やっと、天秤に何が吊下がっていたのか、分かった。