10
「マキちゃん」
その声は、とても静かで、けれど確かに、私の心を傷つけた。右が先だったか、左が先だったか、私の知らぬ間に流れた涙は、何の前触れもなく降ってきた雨に紛れた。
「……はよ行こ、びしょ濡れになる」
財前君はさも当たり前のようにそう言って、当たり前のように、私の手を握った。
駅までの間にあるコンビニに駆け込んだが、突然の雨だ。皆考えることは同じで、傘は売り切れていた。しゃあない、と呟いて、財前君はまた私の手を取る。出来るだけ全速力で、駅まで走った。
握られている手のひらが、悲鳴をあげていた。今すぐ振り払いたい。離れたい。なのにそれを許してくれないのは、財前君の只一言だった。どうしてそんなことを、今更言うの。私には何だって分からない。財前君が今何を考えているのかも、今まで何を考えていたのかも分からなかった。
「タオル持っとる?」
差し出されたハンカチは、雨に晒されていて、使い物にならない。差し出すと同時に気づいたのか、財前君は顔を顰めて、駅内のお店でハンカチを買い直した。面倒だからとタグを引きちぎり、そのまま私へと渡してくる。
「……ありがとう」
お礼なんて言う気分ではなかった。だけど、今されたことは、私の思考とも何とも関係ない優しさだ。だからこの1つの行動に限って、お礼を言う。顔を拭いて、湿った髪からいくらか水分を抜いて、手のひらを清めた。
「ごめん、洗って返すから」
「別に良えよ。あげる」
今無かったから買ったもので、だから別に要らないという意味だったと思う。けれど私の思考はそれを、上手く汲み取ってはくれなかった。
「要らない。財前君からは何も欲しくない」
それは、拒絶だったと思う。傷ついただろうか、怒っただろうか。例えそうでも怯まない。そんな心持ちでいれば、予想に反して、彼は笑った。だから私が、拍子抜けしたのである。
「七桜。俺がいつから、自分のこと好きやったかって話」
雨で濡れた体をどうにかするでもなく、まず始めにそう言った。だから、額にくっついた前髪を、私の指が掬ったのは無意識だったと思う。財前君は少しだけ驚いたけれど、それをやめさせることはなかった。
「七桜と同じ」
唇の動く様、1つ1つをしっかりと、瞳が捉えた。
多分、いや、絶対に、そうだという確信があった。それしか有り得なかった。
あの時、確かに私たちの心は繋がった。離れるわけがなかった。どちらとも、声に出しては言わなかったけれど、言葉にしなくても分かってしまう事実だった。
「だったら、どうして、」
忘れてしまったような、そんな素振りを見せたというのだ。あの日、入学式の日、私は貴方に逸らされた視線が怖くて、自分の心をぐちゃぐちゃに塗りつぶしたというのに。塗りつぶした隙間から溢れ出す恋を、隠すことだけに必死だったというのに。あの日あの時に戻れるのであれば、言い訳ならいくらだって聞くし、何分でも何時間でも、言葉を紡ぐ様を待っていたい。
ああ、でも、そうだ。
「七桜は、俺の事好き? それとも、」
……好きだった?
そう言って、雨水と一緒に涙を拭う姿が、らしくない。見てはいけないものを見たような、後ろめたさを感じてしまう。だから思わず、目を逸らしてしまって、多分それが、答えだった。
私は、恋をしていたのだ。あの日の財前君に、恋をした。キラキラと輝いていて、底知れぬ魅力で皆を魅了して、そして、何より、格好いい財前君に恋をした。
それなら今、目の前にいる人は誰だろう。全然、輝いてなんかない、魅力なんてお世辞にもあげられない、泥水を這うような、夢も希望も持ち合わせない、1つも輝きのない、目の前にいる彼は誰だというのだ。私は、キラキラとした財前君の虚像を、今の煤けた鏡に当てはめていただけだった。それに気づいてしまって、私は今、財前君を好きなのではなく、好きだったことに、この答えにやっと辿り着いたのだ。
「私は、財前君のこと、好きだよ。今だって好き」
胸に手を当てて、自分を落ち着かせながら、口を開く。財前君は、何も言わずにただ、待ってくれた。
「でも、貴方のことは好きじゃない」
私は、卑怯だ。そんなこと分かりきっている。
せめてあの思い出からは、輝きを奪いたくはなかった。