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「え、もう乗ってますよ」
『アンタさあ……改札前で待ってた先生の気持ち分かる?』
コンクールに向けての練習で、先生と県外に来た時の話だ。戻る前に観光したいという私のお願いを聞いてくれたのだが、ものの見事に迷ってしまった。次の新幹線で帰らないとまずい。そう思って改札を通ったのは、出発の10分前だった。
『どの辺にいる?』
「1号車の1番前です」
新幹線に乗り、出発を待つ。先に乗ってしまったから、見つけやすいようにと1号車の1番前まで歩けば、幸い空席だった。
場所を伝えたのに、先生は一向にやってこない。どこかで人混みに邪魔をされているのだろうか。
「先生、どこですか?」
『どこって、1号車だけど』
「え?」
驚いて立ち上がり、後ろを見渡すが、それらしき姿は見えない。私がいるところが間違えていたりして、と席を確認したがやっぱり1号車だった。
まもなく出発します、というアナウンスが流れる。
『楓、あんたもしかして……』
逆方向に乗ってない?
死刑宣告のような先生の言葉は、出発の音にかき消された。
やってしまった。……やってしまった。
多分、あまりに華麗すぎる方向音痴を発揮してしまったのである。先生が一緒だからと油断したかもしれない。きちんと待ち合わせをして乗れば良かったのに、まさか、慌てるとこういうことになるらしい。どうして改札の前で待たなかったのか、悔やまれて仕方がない。
『とりあえず次止まった駅で降りて、絶対動くんじゃないよ』
はい、と項垂れるしかない。次の駅までは15分ほどだったが、やけに長く感じた。
電話に夢中になっている間に、男の人が隣に腰を下ろしていたので、驚いた。電話、うるさくなかっただろうかと軽く会釈をするが、特に反応は無かった。
次の駅、次の駅、と終始ソワソワして落ち着かない。ふと、足に何か当たる感触がして、背筋が震えた。視線だけを下ろすと、隣の男の手が、私の太股へと伸びていて、声をあげようとしたが恐怖がそれを押し込めた。男を見るのも怖い。気づいていないフリをして、窓の外を眺めることしか出来なかった。
あと、何分だ。もう5分は経っただろうか。まだ3分くらいだろうか。いつもは気にしない時間が、秒単位で本当に長くて、目眩がした。男の行為は徐々にエスカレートして、忌々しいような手は衣服の中に入り込もうとしていた。
声を、声を出さなきゃ。拒絶しなきゃ、と頭で考えているのに何も出来ない。目を瞑った。大丈夫、多分あと数分だから、あと、
「お、マキちゃん、こないなとこにおった」
知らない声が降り掛かってきた。勢いで、窓から目を逸らして振り返ってしまう。
「皆あっちに座っとるから、移動しようや」
見知らぬ人だった。私の隣に座る男が見えていないと言わんばかりに手を伸ばしてきて、戸惑いながらもその手を掴んだ。
ずかずか、とその人の歩幅に合わせて2号車へ移動する。
「どこで降りるんスか」
「次の駅です」
キリキリと胃が痛んだ。そもそも全部が全部、乗り間違えのせいだから仕方がないのだけど。未だにバクバクと震える心臓を落ち着けていれば、新幹線は停車した。
駅へと降りてから、どっと疲れが押し寄せてきた。丁度2人ぶん、空きの椅子があったので、遠慮なく腰掛ける。
「方向間違えるとかアホすぎません?」
「はい、アホです」
ド、正論だ。床に正座している気分になった。彼はとても落ち着いた雰囲気なのに、耳には5つものピアスが光っていた。チャラそう、苦手だな、という意識が先行してしまったのだけど、どうやら良い人なのかもしれない。意地は悪そうだけど。
「ありがとうございました」
「別に構へんよ、ああいうのは強気な方が勝ちますから、もっと怖い顔してた方が良えですよ。あ、俺、財前光いいます。自分は?」
「七桜といいます」
「七桜マキちゃん?」
「楓!」
喋り方からして関西人だろう。関西へ帰るところだったのだと思う。それはもう、途中で降ろしてしまったのは、かなりの申し訳なさを感じた。というより、一緒に降りなくても良かったのに。
「あの、どうして一緒に」
訊いてしまってから、やめておけば良かったと後悔した。今まで途切れなかった会話は、急にぶっつりと切れてしまった。何かフォローをしなきゃ。そう考えていると、
「なんでやろなあ」
溜め息と同じくらいの声だった。とても小さな声だったけれど、そこに確かな熱を感じた。
熱といえば、手を差し出されてから掴んだそれは、未だに繋がれたままだった。それに気づいてしまって、顔があつくなるのを感じる。意識しているみたいで恥ずかしい。顔を隠そうと、その手を離そうとすれば、強く握られて、動けなくなった。
「一目惚れって、あると思います?」
私はゆっくりと、頷いた。
それからもずっと、話が尽きることはなかった。ついでに、手を離すこともなくて、恋とはこんなに単純で、ありきたりなのだと思った。情熱的でもなんでもない。ライフソングのような、何気ないピースの一つだったなんて。
「なーに逆ナンしてるの楓ちゃん」
だから、突然聞こえた先生の声で我に返った。12時の鐘のようだと思った。先生が悪いわけではないけれど、あと少し、数分だけでも、彼と一緒にいたいと願いたかった。
「先生、違います!」
「どうも、ウチのおっちょこちょいがお世話になりました」
迎えが来たから帰るだけだ。当たり前の事なのに、とても寂しいと感じてしまった。先生に手を引っ張られながらも後ろを向いて、姿が見えなくなるまで手を振った。
あんなに、あんなにたくさん話したのに、連絡先の一つも聞かなかったのである。別れてしまえば馬鹿らしい話だったが、多分、それが正解だった。あの時偶然出会ったことが何より大切で、繋がりを持ってしまえば、偶然なんてなくなってしまう。だから、これで、良かったのだ。
・・・
高等部への進学をやめた。親にも先生にも、散々反対されたのを押し切り、大阪の高校を受験。合格通知とともにこっそり新聞配達の仕事を始め、溜めたお金と親からのほんの少しの応援金で、大阪に高飛びした。
大阪にいるという、ただそれだけの情報だった。これは本当に、ただの自己満足で、財前君との再会なんて望んでいなかった。いや、でも、少しだけ、駅のホームですれ違ったりとか、もしかしたらあるかも。そう夢を見ていたのは否定出来ない。
だから入学式で、変わらず5色のピアスを付けた彼を見つけて、心臓が止まるかと思った。夢なのではないかとトイレにこもって何度も頬を抓った。痛い。現実を受け止めるために教室へ戻ろうとして、私がトイレを出たとこで隣の男子トイレから、財前君によく似た人が出てくるものだから、やっぱりこれは夢なんじゃないかと思った。頬を抓ろうとしたところで、似た人ではなくて本人であることに気づいた。
「財前君、」
覚えてる? と続ける前に、首を横に捻る姿が見えて、何も知らないフリをして、教室へと戻った。