3日目 心のかえる場所

気づけば医務室を出ていた。どこか遠くに行きたい。遠く?どこへ?考えるだけの思考は残っていなくて、ただ、どこかへ歩いていた。

私は、これを知っている。こういう時、私の心というやつは限界なのだと知っていた。誰かに助けを求めたくて、暗闇に手を伸ばして、それでいて、ひかりのある場所を避けた。

「京子ちゃん!」

あたりに響く声が、少しだけ、私を暗闇から引き戻す。振り返った私の顔は、どのくらい酷かったのだろう。

「…………財前、くん」

財前くんは、唇を噛むように表情を歪ませた。


***


ばたん、とドアが閉まる。誰もいない、誰も訪れないところなんて自分の部屋くらいしか思いつかなかった。私の意志ではなく、財前くんに引っ張られるがままだったけど。

「平気?」
「うん」
「嘘」

つん、と額に指先があたる。ふ、と笑う財前くんに釣られて、笑えるほどの元気はまだないらしい。頭はずっと、空になったままだ。

「…………ごめん」

ごめんなさい。私に気を遣わせてごめんなさい。気を遣うあなたを余計不安にさせてごめんなさい。

あなたと会ってしまって、ごめんなさい。

言葉にしたかったそれは、ぽろぽろと涙になって溢れた。
私ってなんでこんなに弱いんだろう。強くありたいのに出来ない。なりたい自分になれない。守りたい誰かを傷つけてばかりだ。

「もっと謝れや」

いつもは、謝るなと言う彼が、棘のある口調でそう言った。けれどショックとか、なんでという気持ちは全然なかった。だって、その通りだから。

「俺に心配もさせてくれへんのも、一人で背負いこむんも、ぜーんぶ京子ちゃんが悪い」
「え……?」
「なんぼでも頼ってくれて構へんのに、アホ」

これが財前くんの優しさだと知っていた。けれど、今の私は素直に甘えることが出来ない。ごめん、と呟いたそれは、彼の求める意味ではなかった。

財前くんは、はぁー、と長い溜め息を吐いてから、一向に口を開かなかった。長い沈黙が流れる。それを遮ったのは、ブー、ブーとポケットの中で震えるスマホだった。
侑士からの電話だ。きっと医務室に戻って、私がいないことに気づいたのだろう。出なくちゃという気持ちとは裏腹に、指はうまく動かない。

急に、手のひらから重みが消えた。私のスマホは財前くんの手の中にあって、やがてバイブ音も消える。

「……やめようや」
「え?」

なにを。問いかける前に、私の体はどさ、とベッドに倒れた。人一人分の重みで上手く立ち上がれない。抵抗する気力も体力もなかったし、何より、表情を窺えない彼に、何かしてやらなければと思った。しばらく空中を彷徨っていた手のひらが、財前くんの頭の上に落ち着く。ぽんぽん、と子どもをあやすようにしてやれば、笑われているような気がした。

「……なによ」
「俺が、これ、したいんやけどなぁ思うて」
「あらそう、ごめんなさいね」

本音ではないそれを口に出せば、今度は分かりやすく笑った。少しだけ気分を害したので、話題を逸らすために改めて尋ねる。

「やめようって、なにを?」

財前くんはむくりと身体を起こした。同じように起き上がろうとして、肩を押される。見下ろされるように視線が合って、唾を飲んだ。

「帰ろ」

表情も声のトーンも何一つ変わらない。
彼にとっては、顔を合わせて言うおはようと、何ら変わりのない言葉なのだろう。それが私にとってどれだけ重くて、期待して、それでいて聞きたくない言葉なのか、分からないのだろう。

「どこに?」

だから、聞き返したこれは、きっと棘があったに違いない。だと言うのに、財前くんは本当に、まるで当たり前すぎるとでも言うように、何も変わらない。

「大阪」

……ああ、分かっていたんだ。私が何を欲しがって、何を与えられなかったのか、彼はきちんと理解していた。ぼろぼろと、何度も情けなく泣いたって、決して笑ったりはしない。私の一番欲しいものを、ここにいてもいいんだと、与えてくれる優しさが心地良い。

「…………いいの?」
「おん」
「わたし、……か、かえりたい」

帰る場所があることが、帰る場所と呼んで良いことが、何より嬉しい。霜鷺じゃなくて、藤崎として、初めて居場所を与えられた気がした。



財前くんは、私が泣き止むまで、何も言わずにただ背中に触れてくるだけだった。きっと、私の涙の理由を、彼は知らない(というか、何か違うものと勘違いをしていそう)から、それだけが少し複雑だけど。

「ほな、帰ろか」

差し出された手に、自分の同じものを伸ばす。ぴたり、と、それは重なる前に止まってしまった。

「京子ちゃん?」
「…………………………」

…………これで、いいのだろうか。頭によぎったのは、跡部さんの言葉だ。何があっても俺を信じろと、彼は言った。
あの人は決して、ばかではない。考えなしにこんな手間のかかることはしないのだ。まだ、彼が何をしたいのかも分からない間に、それに蓋をしてしまって良いのだろうか…?

「…………私、」


Your choice will change the future