3日目 天井のシミ

強くありたいと思った。というか、強くなければいけない存在だった。
理不尽なことは嫌いだ。この世には、要らない理不尽や不条理が多すぎる。その矛先が自分であれば尚苛立ったけれど、1人で立ち向かって、消すまでの力は、まだ私にはなかった。だから耐えた。
根拠の無い噂を信じる人は、同じレベルの人間ではない。ただのバカだ。バカに神経をすり減らす必要なんてどこにもない。
私は真っ直ぐ立っていると、今だってそう思っていないと、生きていけなかった。



走った。とにかく走った。私はとにかくあの場所から離れなければいけなくて、目的なんてそれだけだった。それ以外のことは分からない。

怖かった。銀色に光るものがこわくて、私はそれから、逃げなければならなかった。途中で段差に足を取られて、前のめりになった時も怖かった。死はいつだって私を離さなかった。

「、っ!」
「い、たっ」

ついに地面に転がってしまった。角を曲がったところで、死角なんて気にしてはいられなかったせいで、向こうからやってきた人とぶつかる。
起き上がって、眼鏡を拾う。それが私の、黒縁のものではなくて、特徴のない丸眼鏡でなければ、誰とぶつかったかなんて、きっと知ろうとも思わなかっただろう。

「……ゆうし、」
「京子ちゃん、どないしてん」

やがて侑士も立ち上がって、その手に掴んだのは私の眼鏡だった。

「なんや騒がしくなっとるけど」
「…………」

肩を震わせることしかできなかった。何かを話そうとすれば、途端に怖くなってしまって、震えてしまうのだ。侑士が差し出したのは眼鏡ではなくハンカチで、ここでやっと、自分が泣いていることに気がついた。

「……大丈夫、」
「大丈夫やなくて、何があったん」
「大丈夫だって言ってるでしょ!!」

大丈夫。私は大丈夫だ。柄にもなく大声を出してしまったけど、大丈夫なんだから。

これ以上の迷惑をかけて、何になるのだろう。それでも尚何かを言っている侑士を無視して立ち上がり、歩き出せば、肩を掴まれた。

「京子ちゃん」
「…………お願い」
「それは聞けへんやつ」

涼しい顔をして、こういう時は頑固だ。迷惑を掛けても良いという免罪符だけを思い出して、深い溜め息を零した。




有無を言わせず、連れて来られたのは医務室だった。ベッドに寝かされて、ほなおやすみとカーテンで仕切られれば、何も言えなくなってしまう。
しばらく天井の、同じところを眺めていた。何を考えていた訳でもなく、只何かをしていようとした私が、そうしていた。

「……引き留めてくれんと調子狂うんやけど」

すぐに戻ってきた侑士の言葉で、首だけをそちらに向けた。その時初めて、さっきまで天井を眺めていたんだと、理解したような感覚だった。

「……ごめん」

引き摺られたパイプ椅子が、病院を思わせた。途端にここがどこで、今が何の時なのか分からなくなる。きっと不安の過ぎった顔をしてしまったのだろう。侑士は私を落ち着かせようとしたのか、ぽんぽんと頭を撫でた。

「わたし、大丈夫よ」
「おん」
「弱くない」
「おん、」
「まだ、歩ける」

侑士への投げかけであって、自分への言い聞かせだった。大丈夫。私は、大丈夫だ。ぺちん、と両頬を叩いて、よし、と呟く。

「落ち着いたら戻るから、侑士は先に行ってて」
「せやけど、」
「恥ずかしながら、なあんにも覚えてないの」

だから状況を聞いてきて。という意味なのだけど、それをかなり遠回しに伝えて、分かったと言ってくれるのは有難い。この優しさにいつまでも甘えているワケにはいかないのだけど。今回は、今回は仕方ない、もう何度だって言い聞かせた。

今度はきちんと、医務室から出ていく姿を見送る。再びベッドに倒れ込んで、天井を見つめた。けれど、さっきのような虚無感はない。

息を吸って、吐く。何度か繰り返して、よし、と呟いた。
侑士が帰ってくるまで、もう少しかかるだろう。今、私に出来ることは何もない。ただ強くあることだけだ。これ以上、私の周りの人たちを傷つけないために、私は傷ついていないと、私は大丈夫だと見せつけてやることだけだ。


やがて、ドアの開く音がする。帰ってきたのかな、とカーテンを開ける。現れたのは侑士ではなくて、

「……先輩?」

そこにいたのは白石先輩で、名前を呼ぶ前で良かったと安堵した。が、それはつかの間の出来事だ。
白石先輩の背中には、隠れるようにもう1人いて、その人は私と目を合わせるなり小さく悲鳴をあげた。

「やだ、こわいよぉ……」

神田さんは白石先輩の腕をしっかりと握って、ぴたりとくっついている。それを宥める先輩を見て、頭は、からっぽになった。

白石先輩は、やさしいから。誰に言い聞かせたいのか、その言葉を何度も心の中で復唱する。
きっと、怪我をしている神田さんを心配したのだ。それだけだ。それだけ…?本当に?

からっぽで真っ白になった頭は、今度は黒く塗りつぶされるようだった。足元に地面がないような、うまく立てないような、そんな感じがして、目が回る。

こわい。
こわかった。
何がこわいのか、それすら自分でも分からなくて。

「すまん、京子ちゃん。ちょお外してくれへんかな」

あくまで私を傷つけないような、優しい声色で言われたそれを、最後まで聞くことはなかった。