i日目 心

1ヶ月の病院生活は、過保護にも程があったと思う。だってもう、どこも痛くないし、生活に支障はない。そう思った矢先、唐突に、激痛が走る。落ちた時に打ったところは、こうやってたまに、私を苦しめた。
こうやってたまに、私に死を教えた。

思えば私は、死ぬことが極端に怖くなったのかもしれない。あの日あの時、少しだけ死の淵を覗いて、それで怖くなったのだ。刃物が嫌いになったのではなくて、死ぬことが怖くなったのだ。今までで1番、死に近かったものがそれだっただけで、だから多分、もう高いところも無理だろう。もう1階高かったら、屋上だったら、こんな怪我では済まされないし、こんなことを考えてすらいなかった。

それを差し引いても長い時間だった。楽しいものに変換してくれたのは、やっぱり侑士だった。侑士は暇があれば遊びに来てくれたし、謙也さんもあれから、次の週末も来てくれた。だから前ほど、退屈ではなかった。



久々のブレザーは、似合っているかよく分からない。顔が草臥れているから、いつもと違うように感じたのかもしれない。いつも通りに登校して、いつも通りに教室へと入った。私がいない間に席替えなんてあったらどうしようと思ったけれど、前と同じ席に座る数人を確認して、安心した。そんなことで安心してしまったせいで、ぽつん、と、違和感を隠さず置いてある花瓶が、余計視界にちらついた。

それはただの、知識にすぎなかった。例えば気に食わない人のお葬式をしてみたり、気に食わない人が死んだような前提の、例えばそう、花を供えたり。知識として知っていたせいで、そういったものだと理解するまで、時間はかからなかった。そして理解をすることと、納得するということは全く別の話で、気づけばそれを、どこか遠くへと投げつけていた。

バッグを握り直して、来た道へと戻る。途中で私の腕を掴んだのは、日吉くんだと思ったけど、顔を見ることなんて、いや、顔を合わせることなんて出来なかった。

「どこに行く気だ」
「……保健室」

見れば、指先に傷ができていた。破片で怪我したのだろうか。いやそれはない、だって投げて割れたのだから。きっと最初から傷ついていたに違いない。そうに違いない。軽く腕を払えば、日吉くんは抵抗もなく離れていった。


保健室には、出張中、という紙が貼ってあって、だからつい何も考えなくなってしまった。私は何しにきたんだっけ、そうだ怪我をしたのだ。舐めたら治るだろうか。鉄の味が染みた。これは違う。そうだ、こういう時にすることは決まっている。
ポケットから携帯を出して、電話をかけてみた。通じない。出てくれない。そうだホームルームだっけ。そんなことも分からなかったらしい。床に投げつけてみれば、画面が割れた。使い物にならないそれを拾って、ポケットに仕舞った。

私は歩いていた。目的地を聞かれても知らない。歩きたいから歩くのだ。私がこの無意識で、どこに向かっているのか分からない。何故なら無意識だからである。
適当に入った駅で適当に改札を通って、色も文字も見ずにホームに立った。反対側の電車が出発しようとしている。そっちに乗っても良かったけど、こっちの気分だ。どこに行くかは知らない。
最前列で電車を待つ。人の声も電車の騒音も何もかもが耳に入ってきて、何もかもが頭に入って来なかった。けれど、列車がまいります、というアナウンスだけは妙にはっきりと聞こえて、それは多分、一瞬にして我に返ったからだと思う。

背中に強い衝撃を感じた時には、バランスを崩していた。線を乗り越えて、ホームの穴に、落ちた。線路があまりに近い。さっき目で見えた電車と、私の距離はあと、どのくらいだろう。鮮明になりすぎた思考は、死の淵を覗いていた。



***



痛いくらいに眩しかった。ベッドはいつもより柔らかくて、なにより壁が真っ白だった。いつもは、というより、つい昨日までは、ブラウンの壁を眺めていたから。
何度か瞬きをしてから、体を起こす。違和感を覚えたのは本当にすぐのことで、左手を何かに、掴まれていた。視線を追えば、

「……跡部さん、」

どうしてここにいるかなんて、聞けなかった。ただ私の手を強く握って、視線は合わせてくれない。表情をひた隠しにして、それでいて、何も話してはくれなかった。何も言えないのだと気づいて、胸が痛んだ。

「ねえ、離して」

だから私から伝えた。なのに、離すどころか、より強く握られてしまう。そうしてから、跡部さんはやっと口を開いた。

「俺は、どうすれば良かった」

過去に問いかけたって、何の解決にもなりはしない。跡部さんが、こんなことを言うなんて思っていなくて、驚いた。彼はもっと、前を向く人だ。だからそれが、とても引っかかっていた。

「1人になりたいの」

それは、跡部さんの問いかけへの答えではなかった。私の、我儘だった。そう言っても、離れる気配はまるでない。どこかに行きそうだ、と、ぽつりと零された言葉で、なんとなく、察してしまった。私が、自らの意志で落ちたと思っているのかもしれない。もしそうなら、そうでないと言うべきだったけれど、今の私には、そんな余裕はとてもでないけど余っていなかった。
数分経ってからやっと、跡部さんはこの場を後にした。それを見送ってから、再びベッドへと体を沈める。眩しい照明と顔の間に、手のひらを挟んだ。

あの時、何がしたかったのか、どこに行きたかったのか、少しも思い出せない。それはまるで、逃避行のようだった。どこか遠くに行きたかったのだと思った。そう思うことは出来るけど、結局は結果論だった。私は、何しに行ったんだっけ?

1人になった病室に響いたのは、深く吐かれた息だった。

「私…………」

自分の心が限界を迎えたのだと、今やっと、理解した。