i日目 刻まれたもの

不愉快だった。そしてそれを隠すこともしなかった。
毎日毎日毎日、自称跡部ファンの彼女らは私への罵詈雑言が尽きなかったし、元々鼻についていたのか、それ以外の人も便乗するようになっていた。
本当に、不愉快だった。
それでも、テニス部のマネージャーという与えられた仕事はきちんとこなしていた。これは仕事であって、私情は一切挟まない。流石の跡部さんもここまで悪化すれば、私に構うこともなくなって、これだけは過ごしやすさが増えたと思った。

でもそれは、神田さんにとっては割り切りに見えなかったようで、何を言ったかは知らないが泣きついた先は宍戸先輩と向日先輩だった。ああだめだ、あの2人は優しすぎるし真っ直ぐだ。今にも泣きそうな顔で、いや、泣きながら、助けて、藤崎さんが怖いと言う女の子を目の前にすれば、私に優しい目を向けるわけが無かった。そういう人たちなのだ。逆に優しくされた方が、人を疑った。
冷静に考えて、要らないのは私だと思った。私がいなければ、テニス部に、余計なトラブルなんて一切ない。そう思ってからは、顔を出さなくなってしまった。





「跡部にどうにかしてもろたら良えやん」

休日、新しいカフェが気になるからと誘えば、忍足さんは二つ返事で了承してくれた。適当にコーヒーを頼んで、暇になってからの第一声がそれだった。

「嫌よ」
「せやかて10割跡部の所為やん。きちんと否定せえへんから」
「跡部さんの所為じゃないの」

丁寧にテーブルに出されたコーヒーに、角砂糖を2つ。それをスプーンでかき混ぜる様子を、顰めっ面で観察された。

「甘いやろ、そんな入れたら」
「普通でしょ」

むしろ4つくらい入れたい。このまま、なあなあにしたいと思いながらミルクも追加してみたが、どうやら彼の本題はこれらしい。違う話題なんて何一つ無かった。

「今からでも遅ないと思うんやけどなあ。跡部が、神田なんて知らん〜て言えば良えだけやん」
「……そう簡単な話じゃないの」

そう、簡単な話じゃないから、私は不愉快を顔には出すが言葉は出さなかったし、跡部さんだってそうだ。甘くしたコーヒーを半分一気飲みしてから、言葉を続けた。

「忍足さん、何をどう言えば伝わるか分からないのだけど、私は藤崎京子よ。藤崎京子のまま、卒業したい」

それは私が、切に願うことだった。神田さんが、本当の私を知っている上に、そうなろうとしているのであれば、無駄な刺激を与えるのは避けたかった。避けなくて良いなら、それこそ跡部さんが否定してくれればいいだけの話で、けどそうした時のカウンターが、何が来るのか分からない。だからこうするしかないのだ。言わずとも汲み取ってくれた跡部さんに、感謝しているくらいだから、こうして跡部さんに噛みつく忍足さんの方が、分からなかった。

「せやかて、意味無いやろ。今だけなら良えけど、例えば3年間こんな感じで過ごしても、全然楽しくないやん。そこまでして、肩書きに拘るの、俺にはよう分からん」

勿論忍足さんが言うことも分かる。一般人、と言ってしまえばかなり失礼だけど、家の柵なんて気にしたことのない人から言えば、それが正解だと思った。だけど、私は違う。今、少しだけ不愉快な思いをした、で済まされるかもしれない案件と、全てを明かしてこの先の学園生活を送ることを比べた時に、絶対に前者の方がマシだと感じてしまうのだ。許された3年間だけは、何があっても、そう思ってしまうのだ。

「ねえ、忍足さん、私そんなに弱くないわ」
「……せやな」

強がって言ったことも分かってて、忍足さんは口角を上げて、そう言った。
私は弱くなかった。だけど、強くもなかった。





日直のもう1人に仕事を全て押し付けられ、終わる頃には教室にはもう誰もいなかった。
教室にいて、息苦しくないと感じたのは久々だった。だから少しだけ、寛いでしまったのが間違いだった。

「まだいるじゃん、藤崎」

廊下から聞こえた声は、もう1人の日直の男の子だった。友達と思わしき連れと一緒に、教室へと入ってくる。

「……仕事なら終わってるわよ」
「流石藤崎サンは仕事が早いね」

だったらもう、教室に用はないだろう。なのに私に近づいてきて、少し離れたところで足を止めた。表情を窺うが、やはり何を考えているのか分からない。

「そうだ。日直とは全然関係ない話なんだけどさあ…」

彼はそう言って、ポケットに入れたままの手を引っ張り出した。刹那、思わず後ずさる。しまった、と思った時には遅かった。

「あ、やっぱり、『刃物が嫌い』って本当だったんだね」

右手で握りしめた、ギリギリまで刃を出したカッターを、真っ直ぐと私に向けていた。隣の男も一緒になって笑っている。だけどそれに対して、怒りだとかそういう感情は起こらなかった。そこにあったのは、ただの、何だっただろうか。

刃物を、切れるものを、特に包丁とかナイフを見ると、だめだ。もう痕すら残っていない腕が疼き始めて、呼吸が苦しくなる。あれはもう終わったことで、私が今生きていることがその証明で、だから大丈夫だ。そう何度言い聞かせても、私は私の言うことなんかきいてくれなかった。
逃げたい。今すぐ逃げ出したい。ここから離れなければいけないと、頭の中では警報がガンガンと鳴っているのに、動くことが出来なかった。教室の出口は彼らの背中にあって、つまりすれ違う時に、あの刃はきっと、私を傷つけてしまう。想像してしまった光景は、頭にこびりついて離れなかった。

後ろを向けば、1つだけ開いたままの窓が見えて、足が震えた。



---> Rute 忍足 or 日吉