16.5 噂は総じて嘘ばかり 後編

「どうしたんだそれ」
「夜中に連ドラ見始めたら止まらなくなったの」

目の下に、あまりに目立ちすぎるクマをつくって登校してきた。ドラマなんて見ない、と数カ月前に零していたのを知っているが、それを本人に言えるほど、度胸のある人間ではなかった。
藤崎は座るなり、机に突っ伏した。そのまま寝てしまうのではと心配したが、3分程経って、顔を上げた。

「……1限目、なんだっけ」
「地理」

ぼんやりとした表情で、引き出しを漁っている。引っ張り出したのは古典の教科書で、重い溜め息を吐いていた。そして突然、立ち上がる。教室の後ろまで歩き、ゴミ箱の蓋をこれでもかという程、音のなるように開けた。何をしているかは分からなかったが、不機嫌を隠さない表情で地理の教科書を叩いている彼女を見て、察してしまうのは当然のことである。
そして藤崎は、何事もなかったかのように席についた。

それから数日、同じことを繰り返した。引き出しから違う教科書を引っ張り出しては、ゴミ箱を確認するという、早々起こりえないルーティンを築いてしまっていて、なんだか居た堪れない気持ちになった。誰だってそうなるだろう。いや、この教室では俺だけか。

どうにかしなければ。次の週、月曜の1限目から教科書はなかったようだ。立ち上がった藤崎の腕を掴み、数学の教科書を差し出す。

「……日吉くんのでしょ」
「2冊ある」

知ってるか、忘れたと言えば図書室の予備を借りれるんだぜ。少しだけ嫌味を含めれば、申し訳ないなんて気持ちは起きないだろう。だからそうした。まあ、図書室じゃなくて、鳳から借りたわけだけど。

「ありがとう」

いつもよりスッキリとした表情だった。藤崎の起こってしまった、というより引き起こした行動を見て笑っていた外野は、驚いているようで、それだけでやりがいのある事だと思った。

チャイムが鳴ればそれが返ってきて、次の教科書は藤崎の引き出しではなく、俺の引き出しから出てきた。あんなクソみたいなルーティンより、こっちの方が良いだろう。感謝なんていらない。ただ、人を落とすことで悦を感じる人間は愚かだと、分からせてやればそれで良かった。ゴミ箱にいった可哀相な教科書は先生が見つけて返してくることもあれば、勝手に返ってくることもあったし、そのまま捨てられることもあった。
つまり必然的に、藤崎の教科書は無くなっていった。授業中であれば良いのだが、弊害はそれ以外に出てくる。

「今日の課題の範囲、コピーしてやるよ」
「ああ、良いよ。忍足さんに借りる」

藤崎は事あるごとに、忍足先輩を頼りにしていた。かなり前から仲が良いらしく、遠慮しない相手だと聞いたことがある。それがなんだか、無性に苛立つ時期もあったが、最近は、1人でも頼れる人がいて助かったと思い直した。


その日は朝の稽古を早めに切り上げ、早い時間に登校した。朝練もない日だったから、そのまま教室へと向かう。早い時間に、教室に一人でいるのはなんだか不思議な感じがして、嫌いではなかった。だからそこに、先客がいたことにまず驚いた。その先客は、教室の後ろで俯いたまま、動く気配はまるでなかった。

「藤崎?」

後ろ姿だけで分かる。黒い髪を靡かせて、目が合った。その目がなんだか泣きそうに歪んでいて、言葉を失う。手には国語の教科書が握られていた。
今更、捨てられただけでこんな顔をするだろうか。いや、本当は前からずっと、そう、泣きたいくらい苦しかったのかもしれない。俺はそんな、彼女の役に立てていたのだろうか。答えが分からない。分からなくても、手を差し伸べるしかない。

「まだこんなバカみたいなことする奴がいるんだな」

いつもの調子で言ったのに、彼女は更に、歯を食いしばるような、何かに耐えるような表情へと変わってしまった。

「ちがうの。これ、日吉くんの……」

そういえば、昨日は貸した後、急に呼び出されたとかで返されていなかったかもしれない。そんなことをぼんやりと思い出して、さっきまでの自分の思考が、まるごと間違いであることに気づいた。
彼女の手からそれを奪う。怒るとでも思っているのだろうか、怯えたように俯いたままでいる藤崎は、俺の知っている藤崎とは、まるで別人のように感じた。

弱いと思った。減らず口で、あの跡部さんともまるで対等な会話を望み、常に堂々たる彼女の背中が、小さく見えた。だから、抱きしめてあげたいと思った。慰めてあげたいと思った。守ってあげたいと、思った。
その感情を殺して、代わりにハンカチを渡した。藤崎は意味を受け取りかねて、眉を下げて俺の様子を窺う。

「泣くなら早くしろ。他の奴が来る」
「…………ありがとう」

笑った顔が、美しいと思った。

俺が何を考えているかなんて、彼女は知らない。その時にうまれた感情は、確かに恋と呼べるものだった。この笑った顔は誰にも見せたくなかったし、驚く顔も泣いた顔も、見てみたくなった。

恋があまり、綺麗でないことを知った。



--->return Main[17]