3日目 過去からの逃避行

あれから数十分後、こうやって倉庫の前に神田さんと並んでいるのも必然であり、とりあえず、心の中で、跡部さんの腹のあたりを殴った。さっき、もしかしたらなんて、予想をしてしまったのが悪いのかもしれない。いや、いつだってその想像はしていたから、その所為でないことは分かっているのだけど。何かに責任転嫁をしなきゃ、2人きりのこの空間に耐えられなかった。

「神田さん、ボールの補充に来ただけだよね。あまり長居すると、サボりって怒られちゃうから」

ボールの入った籠を持ち上げながら、早口にそう言った。だって何か、良くないことがある気がしたから。背中を向けて歩き出せば、思ったよりも強い力で肩を掴まれた。うっかり籠を落としそうになって、踏み止まる。落としてしまえば片付けが大変だった。

「どうしたの?」
「随分余裕よね、あなた」

全然余裕なんてないのだけど。そう見えているのなら、大したものだと自分を褒めたかった。今にだって、足が震えそうだ。一度荷物を下ろし、再び振り返る。

「……慌てることって、ある?」
「立海の、柳生さんと仁王さんだっけ? あなたの知り合いみたいだけれど、もう随分嫌っているわよ。話してないから、知らないでしょうけど」
「そう」

震えが伝わらないように、短く言葉を切る。実際、慌てるような話ではなかった。初日から、神田さんが彼らと一緒にいる姿をよく見かけたから、同じことしか考えつかないのかと思ってしまった。分かってしまえば、例えば手の出やすい切原くんだとか、そういう人に何を言われても関係なかった。だって、私が今いるのは、神奈川でも氷帝でもなくて、

「そのくらいすれば大丈夫かなって思ったけど、あなた死んでくれないから」
「そう」
「もっと大事な人たちに、嫌いになってもらわなきゃ」

今私がいるのは、神奈川でもなくて、氷帝学園でもなかった。もっとずっと、遠く離れた場所で、だから、そんな遠くの人たちに良く思われなくたって、全然、良かったのだ。だから、

「…………やめてよ」
「あなたからは全部取らないと気が済まないの。何でも持ってる藤崎さん」

思考が上手く働かない。彼女は何をしようとしているのだろう。分からない。だけど一つだけ、今度は、私から何を奪おうとしているのか、それだけは分かってしまった。駄目だ。それだけは絶対に譲りたくない。取られたくない。だって、私は、

「どうやって奪ってやろうか、ずっと考えてたのだけど」

彼女の言葉一つ一つが耳に入ってきて、バラバラに理解した。つまり、理解ができなかった。思考がまとまらない私の前で、神田さんは、ポケットに入れたままだった右手を私に差し出してきて、

時間が、止まったようだった。

カッターの刃を容赦なく出し切って、それを眼前に向けられる。足が、動かなかった。それは私ではなく、神田さんの白い腕に、赤い線を残した。叫び声とか、そういうのだと思うけど、耳に入る声は全て、ずっと遠くの出来事のようだった。

誰かの声がきこえる。誰かの名前を呼んで、それは段々と近づいてきた。帰りの遅い私たちを心配したのかもしれない。数秒前であれば、そんなことを考えられた筈なのに、その声に感じたのは、ただの、恐怖だった。
声のする方向か、逆方向かもわからなくて、とりあえず後ろへ、逃げだした。震える腕を両手で抱えて、少しでも遠くへ逃げ出したかった。