15.5 噂は総じて嘘ばかり 前編

突然倒れなくても良いのに。床で寝息を立て始めた藤崎を、とりあえず部屋まで戻した。

精神と睡眠が、結びつきやすい人だった。それはあの最悪な日のあと、目の下に、それはそれは目立つクマをつくって教室に登場した彼女を見て、察した。後にきちんと、本人から聞いたのだけれど。

口は悪いが根は真面目で、とにかく他人に優しい藤崎と、嘘をばらまいて恋人ごっこをし続けている神田、どちらが嫌な人かなんて、俺にはすぐに分かる問題だった。それは、神田のそれが、嘘か本当かも分からない噂の時から思っていた話で。だから、ただの噂で彼女を攻撃する人間を軽蔑した。それでも軽蔑することしか出来なくて、自分の弱さを知ったのだ。
あれはもうずっと、昔の話だった。



***



藤崎が、補修があるからと部活に来なかった。神田はいつもより、跡部部長の近くにいた。いつもより、というのは、普段であれば、部長が藤崎に構うから傍に寄れないだけである。それを藤崎は嫌がっているのだけど、部長が、改める気が無いのだから仕方がない。邪魔者がいないとか、そういう理由。正直吐き気がした。人の浮いた話なんてどうでもいいが、仕事くらいはきちんとこなしてから浮いてほしい。
だからそれが、神田のただの付きまといでないと気づいた時に、頭を殴られたような気分だった。

「はあ? 許嫁ぇ?」

大きめに響いた声は、向日さんのものだった。それで振り返ると、あたりには人だかりが出来ていた。その中心には、表情を引き攣らせた跡部部長と、その部長の腕をがっしりと掴んだ神田がいた。

「本当は黙っておこうと思ったのだけど……」

神田さんはそう続けた。浮いた話に興味なんてない。じゃあどうして、この人だかりに加わっているかって、野次馬に決まっていた。

「もう1人いるでしょ、藤崎さん。彼女、景吾さんのことすごく好きだから……とられちゃうんじゃないかって心配なの」

それはその、景吾さん、を隣に置いて話すことなのだろうか。部長は困ったように頭を抱えている。一体何がどうなって、突然こんな話になったのか分からない。許嫁だとか、少し雑談の域を超えていた。

本当に許嫁なのかとか、藤崎ってそういう奴だったのかとか。そんな話で盛り上がっていた。それを聞くだけだったのだけど、この時覚えた違和感は、何だろう。きっとそうだ。跡部部長へ向かっていた、尊敬という感情が、そのままベクトルを変えて神田の方へと向かっている気がした。確かにあの跡部さんの隣に立つべき人である、そう思われるのも仕方がない。けれど俺は思えなかった。ただ、その器がないと感じた。

とても練習を再開する空気ではなくて、一旦休憩を挟むと、跡部部長は疲れたように言い放った。休憩がいるほど疲れていなかったから、軽く水分補給をして鳳に声をかける。打ち合わないか。あ、宍戸さんとやるからごめん。それなら仕方がない、やはり再開するまではおとなしくしておこう。
誰も気づいていなかったが、その場に跡部部長の姿がなくて、首を傾げた。先程まで話の渦中にいた人だ。何をしているのだ。少し歩けば、部室の裏にその姿はあった。

「なんで否定せんかったん?」

最初に聞こえたのは、思っていた声でなくて。よく見れば、部長がいる場所の奥には忍足さんが立っていた。どうやら2人で話しているようだ。

「出来る訳ねえだろ」
「せやかて、これ、ちょおマズいやろ」
「……分かってる」

きっと、さっきの話の続きだろうという事は察した。否定をしなかった、ということは、本当は、あれは全て神田の妄言なのではないだろうか。確証は得られない。陰に隠れて、もう少しだけ会話を盗み聞きした。

「忍足、藤崎を頼めるか」

それはとても、あの跡部部長の台詞だとは思えなかった。どうにもならない状況で僅かな可能性のある、苦肉の策のような。そんな感じがした。だって、あの跡部さんが、こんな声で、他人にものを頼むわけがない。

「すぐに帰らせろ。ここに足を踏み入れさせるな」
「ま、今はそれがベストやろな」

部長とは真逆で、忍足さんの声はずっと冷静だった。怒りすら感じられた。それが誰に対するものかはあまり、分からなかった。



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