3日目 つきまとった噂

「帰れ」
「ありがとうございます」

朝起きての開口一番だった。目の下に、それはそれは目立つクマをつくれば、跡部さんは私が一番欲しい言葉をくれた。そういう所は本当に大好きだ。

「車は出してくださいね」
「バーカ、家にじゃねえよ。部屋に戻れ」

訂正。大嫌いだ。

「景吾さん、こんなところにいたの?」

その声は跡部さんの背中側から聞こえてきた。誰かなんて、見なくても分かる。茶髪のポニーテールを揺らして、神田さんは跡部さんの腕に抱きついた。

「またこの人と仲良くしてたの?」
「…………」

跡部さんは、喋らない。余計なことは言わない人なのだ。だから私が、気を遣うしかないのだけど。

「会ったから、挨拶しただけよ」
「ウソ。まだ跡部さんのこと好きなんでしょ」

まだと言われても、最初から好きになったことなんてない。茶番だった。何故かって、ここには私と、跡部さんと、神田さんしかいないのだから。まずもってこの会話には、意味が無かった。全部無意味だ。けれど彼女は、それをやめようとは思わないようで、そこがなんだか、面倒臭かった。

「跡部部長、ここにいたんですか」

だからこれは、文字通りの助け舟だった。

「忍足さんが探してましたよ」
「そういえばそうだった。もう行くぞ。あと藤崎は休め」

部屋で、と強調して、跡部さんは彼女と二人で朝食へと向かった。日吉くんも一緒に行くのかと思えば、私の前に立って動かないのである。早く行って欲しい。でないと、もう持ちそうになかった。部屋へ戻ろうと一歩踏み出した瞬間、ぐらりと視界が歪んで、彼がいなければ床に転がっていたと思う。

突然倒れた私を見ても、各段驚く様子はなかった。壁に凭れ掛かるような体勢になって、日吉くんは私の隣へとしゃがみ込む。

「また寝てないのか」
「ごめん……」
「何かあったか? 誰かに何かされたとか」
「…………お金…」
「……はあ?」

脈絡なんてなかったと思う。けれど、その単語しか出せる気力が無かった。瞼が重い。今、眠くならなくても良いのに。自分の身体なのに、コントロールが難しい。ごめん、と一言だけを絞り出して、その場で意識を手放した。



要約なんて到底出来る話ではなかった。自分でも、何が起こったか分からなかったからである。

神田愛子にはとある、噂がつきまとった。神田というのは偽名で、本当は上級社会に生きる由緒あるお家の、お嬢様なのだそうだ。本当の名前を霜鷺愛子といった。
もちろんこれは嘘で、知っているのは私だけだろう。察したのは2人だけだろう。だからどうでもいいことだと思った。私は藤崎京子だ。だから、本当に、どうでも良かった。氷帝学園で霜鷺京子が誰のことを指そうが、私には関係が無かった。
けれどあの人が、こんなことで終わるわけがない。それを知らなかったただの、凡人である私の、落ち度だった。

「確か跡部と霜鷺って、婚約決まってるんでしょ」

これは跡部さんにつきまとった噂だった。一般の学校よりもそういう人が寄り付きやすいこの学園で、恐らくそれを知っている人がいたのだと思う。断ったんだけどな、なんて口を挟めば当事者になってしまうから、黙っているしかなかった。そして私が、黙るという選択肢しか持ち合わせていないことを、彼女はよく、大変良く知っていた。

「愛子ちゃんから跡部さん取ったんでしょ? 貧乏人の癖に」

これは私につきまとった噂だった。将来を約束された人間を、横取りしようとしている。勿論ただの噂だったし、誰が言い出したかなんて未だに知らない。これに最初に食いついたのは自称ファンクラブの皆さまで、彼女らは神田さんを大変持ち上げて、それを武器にして私に殴りかかった。多分それが、始まりだったのかなと思う。

噂は瞬く間に学園中に広がった。当たり前だ。あの高すぎるカリスマを持った跡部さんに関わる噂だ。そのどれもが全て、全員の耳に入り、要は、私は要らない人になってしまったわけだ。

跡部さんが構うから、と私に世話を焼いたテニス部だって、それを知れば私の事を遠ざけた。当たり前だと思うし、それが当然だと思う。例えてしまえば、財閥同士の難しい話に割って入る、汚い泥棒猫だ。誰だって嫌だろうと思った。だから、極力誰とも関わらないようにした。嫌だと思ったから。



ふ、と目を覚ました。時計を確認すると、私が最初に部屋を出てから、2時間程経っていた。身体を起こせば、部屋の隅で本のページをぺらぺらと捲る、

「日吉、くん……?」

寝ぼけた目で、彼の姿を捉えた。

「眠れたか」
「……ちょっとだけ」

2時間、大したものだ。大爆睡だと言いたかったが、それを言って怒られたことがあるのを思い出した。

「練習は、」
「腹痛ってことにしている」
「……日吉くんでも、サボるんだ。珍しいね」
「そうか?」

なにがおかしいのか、口角を少しだけ釣り上げて、楽しそうに笑っていた。
それはなんだか、とてもずっと前にした会話に、似ている気がした。




---> Rute 日吉