i日目 鷺は霜を踏み潰した 後編


ねえ、知ってる?
神田愛子の噂。




4限目が終わり、昼食も投げ出して音楽準備室へと向かった。分かりきっていたけど、生徒は誰一人いなかった。待っている間に、ピアノでも弾こうかと考えている間に、後ろから扉の開く音が聞こえる。振り返れば、朝よりもずっと穏やかな表情の神田さんがいた。

「何か、話でもあるの?」
「ええ」

神田さんは、適当に椅子を引っ張り出して座った。私はなんだか、今更座るのもおかしい気がして、壁際に寄り掛かった。

「藤崎さんって、跡部さんと仲良いよね」
「そうかな」

跡部景吾という人間は、所謂人気者だった。それはモテるとかそういう次元じゃなくて、偶像を崇拝するような域だった。彼女がその、崇拝する側の人間だったとしても不思議ではないのだけど、そうだとしたら、他の誰よりも、私と跡部さんの距離を感じてしまう今の立場は苦しかっただろう。

「私をマネージャーにする時、彼、何て言ったと思う? 『藤崎が1人は嫌だそうだ。一緒にやってくれないか』だって」
「そ、そう……」

それは確かに、私がリクエストしたことだけど。それにしても直球すぎる。これは確かに謝らなければいけないことだった。

「私じゃなくても、良かったのよ」
「そんなことないわ。神田さん、仕事覚えるの早いでしょ? 跡部さんだって、そういう能力を買って、あなたに声をかけたのよ」

これは胸を張って言えることだった。悲観的にならないように伝えたのに、神田さんは顔を伏せた。
傷つけて、しまった。友達を傷つけてしまった。それは初めての経験で、何を言っていいか分からなくて、とにかく、名前を呼ぶ。

「神田さん、どうしたの」

心配になって、傍に寄ろうとして、気づいた。泣いているわけじゃない。肩を震わせて、
彼女は、笑っていた。

「なにが、おかしいの」
「全部よ」

ついに、声をあげて笑い出した。私はどうすればいいか分からなくて、ただ、立ち尽くしていた。

「あなた、ずるいわ」
「私が?」
「ええ、だって、あなた、跡部さんの許嫁なんでしょ?」
「はあ……? 誰がそんなこと」

ひやり、と汗が流れる。相当な誤解だったし、誤解の前の話だとしても、そもそもそんな話を知っている人なんて、

「霜鷺、京子」

時間が止まった。瞬き以外を許されなくて、次に言葉を発するまで、どのくらい時間が経っていたのか分からない。
一体誰が、そんな話、彼女にしたのか。思い当たる人は1人しか浮かばなかったけれど、それだけは違うと首を振った。だから、彼女の次の行動には動揺と、安堵を感じたのである。

「この前ね、一緒にお片付けしたでしょ? 身分を隠したいのなら、もっと気を付けた方が良いわよ」

神田さんがポケットから出したのは、跡部さんから私宛ての、例の招待状だった。そこには確かに霜鷺と書かれていて。それでも釈然としなかった。たかが名字が違うだけで、素性が分かる筈がない。私の今までの苦労が全部泡になっていくのを感じながらも、心を強く持とうと拳を握った。

「身分って、何の話? 藤崎は母親姓なの、霜鷺なんてカッコつけた名字、嫌でしょ」
「あなた本当に嘘が下手ね」

彼女はなお、楽しそうに笑っていた。

「私ね、財閥間の関係とか、詳しいの」
「どうして」
「当事者だから」
「あなたも、跡部さんみたいに、どこかのご令嬢ってことかしら」
「……そうね。でも今は違うの。本当はウチと跡部さんの婚約が妥当だったのだけど。その前にウチの業績がダメになったの。だから今は一般人」

そこまで言われれば、私の頭の中で、何かがつながるのは早かった。だから何、と、それしか言えないのだけど。だからそのまま言ってやれば、やっぱり笑うのである。楽しそうに、何か愉悦を見つけたように、ずっと、笑っていた。

「私はあなたと違って本気で、彼と結婚したいの。したかったの。分かる?」
「分かるわけないでしょ」
「そう。分かるわけないなんて言える、あなたがその立場にいることが、死ぬほど嫌」

笑いは消え失せた。空気が一変して、背筋が凍る。

「要らないなら頂戴。今日から私が霜鷺になってあげる」
「え、…………?」

何を言ったのか、理解するのに時間がかかって、何も言うことが出来なかった。だから、私があなたの代わりになってあげる。嫌なんでしょ? 家のこと。彼女は懇切丁寧に説明してくれた。すぐに違う、と言おうとした口を噤んでしまう。だって、嫌じゃないなら、私は、

「あげるわけないでしょ、ふざけないで」

精一杯の抵抗だった。神田さんの表情に、笑みなんて残っていない。私が何を言っても笑うことなんてないし、今までの話全部冗談だなんて言う雰囲気でもなかった。

「少しくらい良いじゃない! あなたは何でも持っている! 私には何もないの!」

耳を劈いたのは怒りだった。

「少しくらい貰ったって良いじゃない! あなたはそれ、要らないんでしょ?!」
「うん、要らない。でもあなたにあげるようなものじゃない」
「それがズルいって言ってるの! 良いわ、くれないなら奪ってやる、あなたの地位も、名誉も、名前だって――」






神田さんがこの部屋を出て、何分も経っていた。考える気力もなかった。
一体何が、トリガーになったのかだって分からない。もしかしたら最初から、私のことなんて好きでもなんでもなかったのかもしれない。ああ多分、そうだ。

家のことなんて考えたくない。けれど、嫌いなわけじゃない。捨てたいわけじゃない。だったら、嫌いじゃないなら、今の私は、何をしているのだろう。
ふう、と息をついても、立ち上がる気力がない。昼休みが終わりましたとチャイムが告げる。あと5分もすれば、何事もないように授業が始まる。

私はどうしようもなく、ダメな人間だった。力の入らない手でポケットからスマホをひっくり返す。震える手で、歪む視界で、懸命に電話をかけた。

「……もしもし。…ねえ、忍足さん」


助けて。