i日目 鷺は霜を踏み潰した 前編
視線が苦しい。そう感じたのは初めてではなかったのだけど、ただ何となく、いつもと違う気がした。
だからきっと、気が迷ったのだと思う。いつもなら丸めてゴミ箱に直行する自称ファンクラブからのお誘いを掴んで、屋上へと来ていた。
「アンタ、跡部様の何なの?」
目を合わせて、初めての会話がそれだった。
「別に、何でもないですけど」
「じゃあどうしていつも一緒にいるの? 身の程弁えなさいよ」
腕組みをして、高圧的な態度。私はそれがとにかく嫌いで、できるだけ穏便に済ませたいという気持ちはどこかへ消えてしまった。
「じゃあお尋ねしますけど、私から跡部さんに話しかけた事あります? 実はないの。知らなかったかしら」
だから単に、事実を突きつけた。跡部さんから声をかけられることはあれど、跡部さんへ話しかけたことは無かったのだ。いや、厳密にはあるのだけど、必要最低限の話だから都合よく割愛だ。自称ファンクラブの先輩は押し黙って、悔しそうに顔を歪ませた。
「あの人から、跡部様をとったクセに」
それはまさしく捨て台詞だった。
あの人。
あの人という言葉が気になって、午後の授業はきちんと聞いていなかった。
「藤崎!」
だから、先生に突然大声で呼ばれて、吃驚して身体を震わせた。どうやら何度か呼ばれていたようで、教室には堪えた笑いが響いた。
「続きを読め」
「は、はい」
慌てて教科書を開くが、続きなんて言われても分からない。聞いていないのを知ってて、意地悪。心の中で悪態をついていると、コンコン、と机を叩かれた。隣の席から私の方へと教科書を見せ、段落のついたそこを指差す。そこから読み始めれば、怒られることも笑われることもなくて。ああ合っていた。ほっと一息を吐いた。
「ありがとう」
授業が終わってからお礼を伝える。日吉くんは別に、と吐き捨てて次の授業の準備を始めた。
「お前が授業聞いてないなんて珍しいな」
「そうかな」
「ああ。模範みたいな恰好してる」
「そうかな……」
何を言われても、そうかな、が増えていく。私から見れば、日吉くんの方が大真面目で、模範みたいな恰好をしているのだけど。それを言えば、そんなことないと言うことが分かりきっていたので、やめた。
「あ、そうだ。今日補修あるから。部活遅くなるって、伝えてくれないかしら」
「跡部部長に?」
「それ以外に誰がいるのよ」
「分かった。……いや、直接言った方が早くないか?」
「跡部さんとは極力話したくないの」
喧嘩でもしたのか。いいえ。じゃあアレだ、ファンクラブの。違うわ、あんな人たちに構ってるだけ人生の無駄よ、私はいつだってあの人と話すと疲れてしまうの。もはや苦笑の域だった。
「にしても補修なんて、雨でも降るな。これは」
「だから、模範じゃないんだって」
揚げ足取ってやったり。わざとらしく、勝ち誇ったように言えば、日吉くんは私にしか見えないように笑った。
大掃除ついでに課題のプリントをゴミ箱に葬ってしまった。それはもう、大量に。その影響が今出ていて、いろんな先生に頭を下げて新しいプリントをもらい、許してくれない先生は補修をしていけと。元を辿ればこの散らかし癖のせいだから、はいとしか言えないのだけど。
部活が始まって1時間くらい経った頃に、やっと補修から解放された。1回伸びをしてから、立ち上がる。教室を出てから、ポケットからスマホを取り出した。補修中にずっとうるさくバイブを鳴らしていたこいつだ。一体何だとホームボタンを押せば、大量の着信履歴だった。そのうち1つを適当に押し、耳にあてる。8回ほどコールがしたそれから人の声が聞こえてくることはなく、溜め息を吐いて、切った。
それはとても不思議なもので。切った瞬間折り返してくるのである。誰にも見えないように顔を歪ませて、通話ボタンを押した。
『京子ちゃん、今どこ』
それはとても聞き覚えのある声で、だけどとても焦ったような声だった。必死の形相をした伊達眼鏡が頭に浮かぶ。何かあったのだろう、と察したけれど、至って平生を装って言葉を返した。
「どこって、教室よ。補修で遅れるって、日吉くん、伝えてくれていないのかしら」
『いや、それなら良えねん。ほならそのまま教室で待っとってや』
「はあ…………」
会話の要領を得ないまま、それはぶっつりと切れた。掛け直しても出ないだろう。言われたようにその場で待つ。
赤い窓は、それはとてもきれいな夕陽だった。
あのまま結局、教室まで走ってきた忍足さんと一緒に帰らされた。何か釈然としない。なにかあったのかと訊いても、何も答えてくれないのだ。酷くどうでもいい話と、この前従弟と遊んだ時のだと写真を見せられて、何を言えばいいというのだ。全くもって分からなかった。
そのモヤモヤを引きずったまま、次の日登校すれば、答え合わせは本当にすぐだった。
「あら、おはよう神田さん」
校門を潜ってすぐ、彼女の姿を見つけた。いつものように挨拶をすれば、彼女はいつものように振り返る。いつもと違うことと言えば、目が合った瞬間、彼女が怯えたことだ。
怖い顔でもしていただろうか。それとも私の後ろに熊でもいたのだろうか。首を傾げれば、神田さんは声を絞り出して「おはよう」と言った。それから詰められる歩幅がなんだか怖くて、反射的に下がろうとして踏みとどまった。
「お昼休み、空いているかしら」
「ええ、空いてるけど」
「じゃあ、音楽準備室」
短い会話だった。それだけ言って、神田さんは小走りにかけていく。一体何なのだ。私が昨日部活に行かなかったから、怒っているのかもしれない。何を謝ろうと考えていれば、昼休みなんてすぐだった。
---> Rute 忍足