i日目 夢を見ていた昔の話

「京子さん、お待ちしておりました」

玄関を開ければ、ニコニコと出迎えて来たのは、泣きボクロが印象的なアイツだった。



氷帝学園へ入学し、その間だけは霜鷺の名字を返還し、藤崎と名乗った。いわゆる、バレたくなかったのだ。私はごく一般的な家庭に生まれた一般人として、中学生という時間を過ごしたかった。
高校からは遊ばない、という約束のもとでそれは許された。そしてその事情を知る人は学園に2人だけで、忍足さんはとても話のわかる人だったのだけど、彼は、景吾さんはそれを隠す気がない。私がどんな気持ちでこの朝を迎えたか、知らないのだ。いつも歩いていた、高級なシャンデリアだのなんだので飾りまくった家を出て、家賃3万の年季の入ったアパートへ引っ越してきた意味をまるで分かっていない。リムジンを蹴りやって、傷でもつけようかしら。大人気ないことを考えながら、彼の横を素通りした。

「京子さん。1人での登校は危険です。ウチのSPをつけますので」
「要らないわ」

立ち止まって振り返ると、景吾さんはやっぱり笑みを浮かべたままで。これはもう、はっきり言ってしまった方が早いだろう。

「お父さんに頼まれたのか知らないけど、私は藤崎京子よ。卒業するまでは先輩と後輩。分かりましたか? 跡部さん」
「…………分かりました。いや、分かった。そうしよう」

諦めに近い溜め息だったが、どうやら納得してくれたようだ。

「なら、藤崎。一緒に登校しようじゃねえか」
「話、聞いてました?」
「SPはつけねえよ。ただ、女を1人で歩かせる訳にはいかねえ。特にお前は前科持ちだからな」

前科、とはきっと、あの日のことを言っているのだろう。
数ヶ月前、パーティの帰りに、泊まっていけとしつこかった跡部さんを振り切り、1人で家へと戻っていた。その時にちょうど、会ってしまったのだ。刃物を持った不審者と、それに気づかない忍足さんの姿が見えて、それで、そこからはあまり覚えてなくて、結果的に大きな怪我を負ったのだけど。前科持ちは忍足さんの方だけど、怪我をしたのは私だから、あれから跡部さんは少しだけ過保護になったと思う。

「あれは大体、あなたが泊まれとうるさいから」
「フィアンセと一緒に寝ることに何の不都合が?」

ぶ、と盛大に吹き出した。汚ねえぞ、というツッコミを尻目に、ハンカチで口許をおさえて睨みつける。

「私は、あなたと、結婚しない。断ったじゃない」
「それもそうだ」

財閥間ではよくある話を、引きずっても気にしても仕方ない。あの話はもうなかったことにしていたのに、跡部さんはそうでもないみたいで、複雑な心境だった。学園でさえ言わなければ、些細なことだけど。


跡部さんは、目立つ。
だから跡部さんの隣にいると、必然的に、目立つ。
初日からそんな人の横を歩いていれば嫌でも顔を覚えられるし、跡部さんはことある事に私に構った。自称ファンクラブの先輩方に呼び出されること数回。数十回。百はまだいっていないが、私の限界は、私が思っているよりずっと早かった。

「も、もうむり……」
「ほら跡部、お嬢ちゃん嫌がっとるで」

自称ファンクラブからのお誘いのお手紙をくしゃくしゃに丸めて、生徒会室のゴミ箱へ向かって投げる。綺麗に放物線を描いて、行き着いた先はゴミ箱ではなく跡部さんの頭上だった。

「なんだ嫌味か」
「嫌味ですよ」

そこに当たったのは偶然だけど。それは隠して、口を尖らせて言った。

「あんな奴らの言う事に構う必要ねえだろ。言わせとけ」
「私はあなたほど精神面で強くないの」
「じゃあ鍛えねえとな」

跡部さんの超理論は時々、いや、いつだって理解ができなかった。あなたが私に構わなければ穏便に解決する話だと、何回も言ったのに、それだけは辞めるつもりがないらしい。

「というわけで俺様が直々にテニス部のマネージャーに任命してやろう」

はあ、とか、ふざけるな、とか、勝手に決めるな、とか、言いたい言葉はいくつもあったのだけど。ぽかん、と口を開けたまま、数秒くらいそうしていたと思う。忍足さんに肩を叩かれて、正気に戻った。

「絶対やらない、死んでもしない」
「口」
「絶対にやりません。死んでもやりません」

すっ、と背筋を伸ばして言い直す。けれど跡部さんを睨むことはやめなかった。

「忍足はどうだ?」
「せやなあ。京子ちゃん、テニス詳しいやろ? 適任やと思うけど」
「はあ…………」

同じことでも彼に言われれば、首を縦に振りそうになるのだから、怖い。これ以上遊ばれてたまるか、跡部さんにも、跡部さんのファンの先輩方にも。本当にごめんだった。だから私は、頑なに断った。