2日目 やさしいひと

「今度、中1なんです」
「おん」
「氷帝に、入ろうと思ってます。だから……もっと近くで、忍足さんのテニスを」


***


……見ているのだけど。こんなに近くで見ているのに、昔の方が格好良かったと思ってしまうのだ。
テニスは好きだ。見るのは好きだ。今更やろうとは思わないけど。
今日は何事もなく練習が終わり、各自一旦部屋へと戻る。後片付けをして、夕食の前にシャワーでも浴びようと考えていると、遠くを歩く人影が見えた。神田さんだ。私に気づいた様子はない。どうやら1人でいるようで、しゃがみ込んで、そして小走りに去っていった。

姿を見かけるだけで、私の知らないところで何かをされている気がして、ぞくりと鳥肌が立つ。半年も彼女に粘着されれば、誰だって、彼女は目的の為なら手段を選ばない人間である、ということを絶対に理解するだろう。だから何もしない(財布の件はあったが)ことの方がずっと怖くて、手が震えていることに気がついた。気づけば彼女がしゃがみ込んだ位置まで歩いてきてしまうのだけど。

「何これ」

雑草と土の中から拾い上げたのは、誰かの財布だった。神田さんのものではなさそうだ。見るからに男の子が持っていそうなデザインだったのでそう思ったが、ふと、私が今これを手に持っていることが悪い事な気がして、何もなかったフリをしてそれを地面へと戻そうとした。

「あ、あった! 俺の財布!」

ああなんだ、またこれか。芸がない子。冷めたフリをしてみるが、そんなことで動揺は隠せなかった。叫びながら駆け寄ってきたのは赤い髪が特徴の、立海のユニフォームだった。
落ちてましたよ。おおサンキュー、なんて朗らかな会話にならないことなんて分かりきっている。つまり、立ち尽くすしか無かった。

「返せよ」
「……はい」

手を差し出せば、それを乱暴に掴まれた。

「赤也が言ってたけど、愛子の財布盗ったのもお前だってな」
「……………」
「何だ、金に困ってんのか?」

丸井さんはなんだか、怒っていないようで、調子が狂う。ちょっと待ってろなんて言って、チャリチャリと小銭を漁りながら、500円玉を私に差し出した。

「ほーら、貸してやるから。他の奴の物に手出すのはやめろよ?」

にこやかに、というよりは、怒りを抑えて笑顔を張り付けているようだった。彼はもっとずっと、温厚な人だ。人に優しい人だから、こんな顔をさせてしまった事への罪悪感があったが、それは全て怒りの方へと変換されてしまった。

「…………馬鹿にしないで」
「あぁ?」
「お金なんて要らない」

唯一の地雷を踏み抜かれてしまった。
お金なんて腐る程ある。要らない、他人の施しなんて要らない、自分で稼いだお金にしか価値なんてない。

「…………すみません」

なんだか、駄目だ。初めて話す人に、むきにならないように練習をしてきたのに、素ばっかりが出てしまう。人当たり良くいようとずっと、思っていたのに。結局だめだった。



部屋へ戻っても、やってしまったという後悔ばかりだった。もう少し良い人になりたいのに、私には到底無理な話だった。
ベッドへ横になれば、眠りたい以外の欲は全て消えた。シャワーも面倒くさくなったし、夕食へ行くのも面倒くさい。誰にも聞こえない溜め息を枕に吐き出して、目を閉じた。