8.5 それは赤い糸だった 前編

彼女との出会いは、本当に本当に人生の汚点で、失敗だった。

中1の冬だった。部活帰りに乗る電車を間違えた日だ。初日に間違えてから、もう間違えまいと完全に覚えたつもりだったのに、ぼうっとしていたせいか気づけば逆方向の電車に連れていかれた。
その他にも色々あったが、大元の原因はこれで、その所為で家の最寄り駅に着いたのはいつもより1時間程遅かったと思う。災難な日だった。もう早く家に帰りたいと思いながら、ラケットの入ったバッグを背負い直した。

「忍足さん!」

突然名前を呼ばれたが、聞いたことのない声で。その声と同時に見えたのは、蛍光灯に照らされた銀色のナイフと、見知らぬ女の子の左腕についた、赤色の線だった。
何が起こったのかまるで分からない。唖然と立ち尽くして、気がつけば、今までで乗ったことのない長い車で家に送られていた。




「重症だ」

次の日、学校で跡部に呼び出されての開口一番はそれだ。何のことだか分からない。それをそのまま伝えれば、深い溜め息で返答された。

「昨日テメェを助けて刺された女の子の話だ。と言えば分かるか?」

そこまで言われれば、分からない筈がなかった。けれども、目の前で起こったあれを、どこか遠くの現実でない体験だと思っていたのだ。ナイフを持った見知らぬ男と、怪我を負った見知らぬ女が前にいただけで、傷ができた瞬間を見ていないのだから、刺されたというのは只の状況証拠に過ぎなかった。だからそう、忘れようと思ったのである。

「重症だ。今も手術中で正直助かるか分からない」
「何で跡部がそないなこと」
「知ってるかって? 知り合いだからだ」

彼女は名前を霜鷺京子と言った。霜鷺財閥のご令嬢。昨日は他財閥主催のパーティで跡部と顔を合わせており、その帰りだったそうだ。そして、

「俺の1つ下だ」
「……何で小学生1人で帰したんや」

自分も1人だったのだが、それは棚に上げた。八つ当たりにも程があると、自分でも分かってはいたが、その言葉は跡部の地雷のような部分を踏んだらしい。怒るような表情だったそれは、みるみるうちに後悔へと変わった。

「とにかく、放課後空けとけ」

会いに行くぞ、と、こちらの事情も聞かずに跡部は去っていった。



「跡部、これどこ行きなん?」
「神奈川だ」

何故神奈川、とは聞けず、電車内での会話はこの2言だけで終わった。
授業が終わり、早速乗り込んだ電車は満員だった。大阪も同じくらいの時はあるから、慣れていると言えば慣れていたが。ふと、跡部は電車に乗れるのかと思ったが、口にはしなかった。

その後は終始、跡部の後ろを着いて行った。降りた駅も病院の名前も、病室も覚えられなかった。ただそのドアの前に立って、跡部は遠慮なく中へ入った。

「失礼します」

朝は手術中だと言っていた。もう終わってはいるだろうが、休んでいる所だろう。跡部に隠れるように病室の中を覗くと、

「あら、早かったのね」

めちゃくちゃ、元気だった。ブラウンのベッドから背中を起こした少女は、病院のテレビにゲーム機を繋いで楽しんでいた。重症とは一体何をさして言うのだろう。

「京子さん。調子はどうですか」
「退屈よ。つまらない。退院はまだなの」
「もう少し先になりますよ。あなたがゲームをやめて大人しくしていれば2日は早まりますが」
「明日にならないなら止めない」

これは、女王様、いや、お姫様だった。跡部が年下に敬語を使うという、あまりに珍しい光景を目の当たりにしてしまい、口から言葉が出ない。そこまで言ってから、彼女は跡部の後ろにいた俺に気づいた。

「あら、忍足さん!」

初めて言葉を交わしたのに、彼女は昔からの友達のような眼差しをしていた。何と返せばいいのか、分からなくなって、気まずくなった。

「景吾さん、席を外してくれるかしら」
「はあ……分かりました」

跡部は嫌味を言うこともなく、断ることもなく、すっと病室を出ていく。まるでいつもと別人のような、そんな気さえした。

「忍足さん、こっち」

その声で振り返れば、彼女は部屋の隅から折りたたみの椅子を出していて、座れと言わんばかりだった。言われるままに腰を降ろすが、何かを話そうとすれば、どうにも動けなくなってしまった。

「その……重症て聞いたんや……ですけど」
「あんなの嘘ですよ」
「はあ?」
「ええ、だって、朝起きたらかなり快調だったし、連絡も入れたのだけど」

まるで昨日のことが嘘のようだ、と彼女は言った。袖の下に見え隠れする包帯が、嘘でないと物語っているのに、嘘みたい、夢だったと何度も言ったのだ。

「心配させないと、来ないと思ったんじゃないですか? あなたそういう人でしょ」

もし最初から、意識もはっきりしていて、元気だと伝えられれば、確かに理由をつけて来なかったかもしれない。こうやって顔を合わせることが怖かったと思う。
彼女から感じたのは、理性だった。人を見ることに優れていて、そして一般教養の遥か上のレベルで、いろんなことを学んだのだろうと受け取った。流石財閥のご令嬢だ、などと感心している場合ではない。
何となく合わせづらかった目線を上げる。上げた途端にそれはかっちりと嵌って、彼女がずっと俺の顔を見ていたことに気づいた。

「あの……何か」
「……怪我がなくて、良かったと思って」

今にも泣きそうな顔でそう言うのだから、こっちの方が泣きたくなった。腕に負った傷は軽くは無いだろう。もしかしたら本当に生死を彷徨っていたかもしれない。なのに彼女は、見ず知らずの、赤の他人の心配をするのだ。
赤の他人、と思って、なにか引っかかった気がした。そうだ、名前を呼ばれたのだ。彼女は怪我を負う前に、確かに忍足さんと言った。さっきだってそうだ。

「そういえば、何で俺の名前……」

素直に疑問をぶつければ、何故か顔を隠すのである。会話が進みそうになくて、こちらから切り出してみた。

「跡部に教えてもろたりとか」
「まあ、半分はそうだけど……そうじゃないんです。忍足さん、テニスすごく上手いから」

彼女はそこで言葉を区切って、横にある引き出しの中に詰まった、たくさんのノートのうち1つを掴んだ。目の前に広げられたそれには、写真や雑誌の切り抜きがびっしりと貼られていて。

「これ、去年の関西の大会の時ので、こっちがこの前向日さんとダブルスをやってた時の……この辺は宍戸さんで、こっちの芥川さんの写真は私が撮ったんですよ。キレイに撮れたのでつい」

目をきらきらさせて、弾丸のように語り出す彼女から目が離せなかった。本当に、本当にテニスが好きなんだと思った。



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