午前4時の勇気

人生で初めて徹夜した。0時を過ぎたあたりではワクワクしていたけれど、2時を過ぎれば早く寝ないと、と焦燥感に駆られる。ドキドキしていたのは、最初から最後までだ。

「うん、よし!」

よし、大丈夫。……大丈夫じゃないかも。ええい知らない。当たって砕けろ。不安も興奮も押し殺してベットへ横になったのは、4時を過ぎた頃だった。





「よ、読んで欲しいの……」

翌日(厳密には今日)の放課後、私は1人の男を待っていた。隣のクラスの宍戸くんだ。廊下でさりげなく声をかければ、風景に溶け込んで誰だって気づきはしない。彼の声はよく通るから、それだけが心配だったけれど。

宍戸くんに渡したのは、私の徹夜の結晶――ラブレターだ。宍戸くんに心を奪われて、おかしくなったのは去年の秋。日に日におかしさが増す自分を心配したのは1週間前で、どうにかしなきゃと思い今に至る。
ありきたりな告白なんて出来やしないし、面と向かって、宍戸くんの好きなところをちゃんと伝えられる自信もない。だから手紙にした。そうすれば、余すことなく自分の気持ちを伝えられると思ったから。

「わたし、宍戸くんのこと好き。好きなとこ全部書いたの。これが、わ、私の気持ち…だから……」

用件だけを伝えて踵を返す。うまく歩けなかったのは、手首を掴まれたからだ。嬉しさ半分怖さ半分、おそるおそる振り返ると、宍戸くんと目が合った。

「日向、」
「は、はい」
「……俺、今テニスで忙しくてよ、それ以外に時間使ってる暇がねぇんだ。返事は待ってくれねえか?」

――足元が崩れ落ちるような感覚だった。フラれるシチュエーションは何度も考えたけど、もっとこう、ストレートにお前無理とか言われた方がマシだった。テニスにフラれる人間も大概だし、無い時間の中で読んで返事をという姿勢を見せてくる優しい彼にも、申し訳なくて、ふつうに、穴があったら入りたい。

「へ、返事なんていいよ……ごめんね、なんか」
「日向、」
「じゃあね!部活がんばって!」

早口に言い切る頃には手首を掴んでいた手は離れていた。それをいいことに、今度こそ踵を返して、早足でその場を離れた。


・・・


季節は夏から秋へと移り変わる。が、最近の季節の変わり目はなんだかおかしい。先週までクーラーをつけていたというのに、今日はもう半袖で過ごせるような気温ではなかった。

「う、終わった〜…」

日直の仕事を終えて、一息つく。いちばん近い席の椅子を借りて腰掛けた。窓の外へと視線をやれば、イチョウと夕日の色があたたかい。


ふと、去年の今頃のことを思い出す。その日は土砂降りで、差した傘はほとんど意味を為していなかった。
早足で帰宅している時に、橋の上にいる、一歩間違えれば川に落ちてしまいそうな猫を見つけて、ひゅ、と息を飲んだ。

遠くからじわりじわりと近づいて、手を広げる。猫は警戒心が強い。私が近づくことで、うっかり後ろに下がろうものなら落ちてしまうだろう。これでいいのか分からないけど、放って置くことも出来なかった。

幸い、にゃあ、と鳴いて私の方へ飛び出してきた。広
げた両手はスルーして、足許にスリスリと頬を寄せている。かわいい。だっこしても落ち着いていた。
家じゃ飼えないけど、ああその前に病院かな。とかを考えて、猫に両手を塞がれた自分がずぶ濡れであることには、その時気がついた。
去り際に、ちら、と橋の下に人影が見えて、よく見ればそれは知っている人だった。宍戸くんは、私と同じように傘も差さずに佇んでいる。遠くだから分からなかったけれど、一瞬、目が合ったような気がした。


あれから、私は無意識に宍戸くんの姿を追うようになった。困ってる人にはすぐに声をかけるし、一見ぶっきらぼうだけどちゃんと人のことを考えている。お話ししてみたいな、と思う私に、引っ込み思案な私がぶんぶんと顔を横に振るのはいつものことだった。

春頃だったと思うけど、校内に猫が迷い込んだことがある。屋上へと逃げた猫に追いつく頃には、既に始業のチャイムが鳴っていたのだけど、私には聞こえていなかった。
いつかのようにそっと近づいて、にゃあ、チッチッ、と誘導を試みる。やがて私の腕の中におさまった猫に安堵して、そして、どうすれば良いかも分からなかった。

「日向!」

だから文字通りの助け舟にほっとしたけれど、それは変な方向に私をドキドキさせた。屋上の入口で手を振る宍戸くんの方へ、ゆっくりと向かったのは、心の準備をするためだ。

「猫、つかまえたのか」
「うん……せ、生徒会がやるから、いいって言ってたけど…」
「跡部に出来るわけねぇだろ。見つけたのがお前で良かった」

にかっ、と笑った顔が眩しい。この場でうっかり浄化してしまわないように、この猫どうしよう、と話題を変える。

「く、首輪ついてるから…飼い猫、だよね。飼い主も探してるかも…」
「だったら俺たちで、その飼い主探そうぜ」

授業どうしよう、と不安になりつつも、宍戸くんと居れる時間を考えれば、簡単にその不安から目を逸らしてしまうのだ。我ながら良くない性格なのは分かっているけれど、仕方がない。

数時間後、偶然、駅の近くでビラを貼っている飼い主を見つけて、猫を帰すことができた。飼い主にお礼を言われた後、良かったな、と私を見て笑う宍戸くんに、なんかもう、どうにかなっていた。


迷い猫の飼い主を探したあの日以来、宍戸くんは私を見かける度に声をかけてくれた。話してみたい、という夢が叶って、舞い上がってしまったのかもしれない。だから少しだけ見た夢にも、もしかしたら、手が届くのかも、なんて。結局、届かなかったのだけど。

あれ以来なんだか気まずくなって、宍戸くんは変わらず話しかけてくれたけれど、そんな彼に私がどういう表情をしているのか分からなくなって、気づけば私の方から避けていた。

いつだったか、宍戸くんの綺麗な長髪がバッサリと切られていて、ひどく動揺した。あれよりびっくりする出来事は、一生かけてもないかもしれない。けれどその時だって、なんで、という言葉は出せなかった。だからこのまま、ずっと関わらずに卒業を迎えるのかもしれない、という不安はあるけれど……好きな人は、手の届かない偶像だから美しいのだ。寂しい心に、いつもそう語りかけていた。



秋は、空が暗くなるのも早い。ついこの前まで、まだ青い空が広がっている時間だったのに、今日はやがて真っ暗になろうというところだ。帰らなきゃ。ぱち。と教室の電気を消して、まっすぐ昇降口へと向かった。

校舎の外に出て、未だ賑わう声のする方へと視線を向ける。テニス部だ。ちょうど、練習が終わったところらしい。私の視線に気づいたのか、部員の1人が駆け寄ってきた。

「え、あの、すみません……」

話したこともない人と向かい合って、混乱する。そんなに気になるほど、ジロジロ見ていただろうか……ひとまず謝れば、顔を上げてください、と返された。

「宍戸さんでしょ、呼んできますね」

私、まだ何も言ってない。宍戸くんでもない、なんて否定をするより先に、その人は部室の方へと走り去っていた。呼んでくる、と言われた手前勝手に動くことも出来ない。今出来ることといえば、心の準備くらいで……

「日向、何やってんだ?」

それすら、させてくれないのだ。よく通る、低くて男らしい声は、部室の方からではなく私の背後から聞こえた。

「し、宍戸くん…」
「おう」
「えっと……」

私ですら状況が分かっていないのだから、しどろもどろだ。とにかく待つように言われた、と伝えれば、宍戸くんはなんだか、ちょっとだけ重い溜め息を吐いた。

「長太郎か?若か?」
「え? えっと、……せ、背が高い人…」
「……長太郎か。ったく、余計なことしやがって」

確かに、余計なことだ。私はフラれた身で、まあ、それでも会話出来ることは、嬉しいか嬉しくないかだけで聞かれれば、前者な自分が少し憎い。けれど、彼は違うだろう。

「まあいいか。一緒に帰ろうぜ」

違う、と思っていたから、それとは真反対の言葉が全く頭に入ってこない。え?何?だから、一緒に帰るんだよ。手を掴まれて、ドキドキなんて表現じゃ足りないくらい、心臓はうるさかった。


・・・


「暇な時は後輩の練習に付き合ってんだ」
「す、すごいね」
「別に凄かねぇよ」

面倒見が良くて、困っている人がいたらすぐに手を差し出せて、それは全然、普通のことじゃなくて、すごいことなのだ。それを伝えたくても、そもそも彼にとっては当たり前のことすぎて、私の足りない言葉では全く伝わらない。

「日向は?教室で何してたんだ?」
「え? あ、の」
「部活終わった頃によ、電気ついてたから様子見に行ったんだ」
「じゃあ、すれ違ったのかな…。私は、日直で、」
「こんな遅くまでか?」
「…………うぅ…」

宍戸くんとの思い出を振り返っていた、なんて口が裂けても恥ずかしくて言えない。かと言って、うまく誤魔化すことできなくて、声にならない声を呟くことしかできなかった。

「別に隠すことねぇだろ」
「隠すことなの、!」
「そうかよ。………………なぁ、」

なんか、懐かしいな。この感じ。
きっと笑っているであろうその顔が、暗くてよく見えなかったのは幸いだ。

「日向、」
「……な、なあに?」
「返事、今でもいいか?」

返事って、何の。素直な疑問を、もしかしたら、私何か忘れてるのかな、なんて怯えてしまって、うまく言葉に出来ない。黙り込んでしまった私を知ってか知らずか、宍戸くんはバッグを漁って、取り出したのは白い封筒だった。それにはとても見覚えがあって、

「あの、それ」
「今開ける」
「ま、待って!」

静止なんて届きはしない。あっけなく封を外されたそれは、私の初めての徹夜の結晶で、失恋と一緒に記憶を封印したそれだ。

「ま、まって、なんで持って…る、の?」
「はぁ?捨てるわけねーだろ」
「……いや、だ、だってテニスが大事って…」
「そうだよ。だから『返事は待ってくれ』って言ったんだ。なのに、お前勘違いして」

え、えぇ。ええ〜…。そういうことだったの。勘違いしたのは恥ずかしいし、きっとフラれることばかり考えてた自分のせいだ。まあ、けれど、あの時気づいていたのなら、それはそれで、待っている間に心臓は爆発していたかもしれない。

「ご、ごめん……」
「謝んなって。誤解させる言い方したのは俺の方だ」

そういうところだって優しくて、好きだ。思い出した好きの感情はうまく制御できない。

「……あの、つ、つまり…宍戸くんは、私のこと……どう思ってるの?」

今なら、夢に手が届いてしまうんじゃないかと、思ってしまう。後悔したならやめればいいのに、やっぱり、恋をした人間は、どこかおかしいのだ。

「そりゃあ……いや、返事の前に、俺からも言わせてくれよ」
「え……?」
「日向の好きなとこ」
「え?」
「ずっと、大人しい女子がいると思ってたんだ。そいつが雨ン中ずぶ濡れになって猫助けるわ、知らない爺ちゃんが落とした荷物拾ってやるわ、……なんだろうな。放っておけねえんだよ。あと、校庭に猫が入った時も、ずっと探してたのお前だけだし」

そんなことのどこに、惹かれるような特別な事があったのか分からない。首を傾げれば、伝えるのは難しいな、と耳の後ろの辺りをバツが悪そうに掻いていた。それが、さっきの私とまるで同じだと理解して、途端に、恥ずかしくなった。きっと顔は赤くなっているだろう。暗闇だから、見えていないだろう、と言い聞かせる。

「大人しくて口ベタな癖に、他人から逃げねぇ。この手紙だってそうだ。お前の勇気も、何もかも、好きだぜ」
「す、……すき?」
「ああ、好きだ。……返事、これでいいか?」
「……返事も何も…」

まだ読んでないじゃない。封が剥がされただけのそれを指差す。そうすれば、そそくさとポケットに隠された。

「帰って読むわ。今は、手紙じゃなくて口で話そうぜ」
「……う、うん」

宍戸くんに隠された手紙は、もう半分くらいは何を書いたかすら覚えていない。それでも、あの時勇気を出してくれた私に、穴なんて入らなくていいよと教えてあげたい。

自然と繋がれた手のひらにはぬくもりがあって、今日が寒いことなんて、もう忘れていた。

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