薔薇は青かった
「黒い白馬」
緑色の絵の具をすべらせながら、仁王はそう言った。集中してるから話しかけるなと言われれば、話しかけてしまうのが私である。
「どう見たって犬じゃないの」
「ほう、犬に見えるか」
だってこれ、どこからどう見たって犬だった。見た目は。それが緑色だから、首を傾げるのだ。私の生きてきた15年、緑色の犬を見たことは、無い。
「……なら聞くが、」
どうして緑色はミドリと呼ぶ? 空をさしてミドリと例えないのはどうして? 数字がイチニサンなのは? どうしてサンイチニでは駄目なのか? イチとワンは本当に同じ意味なのか?
つまり、そういうことだ。まるで屁理屈のような戯れ言を、真面目に聞く気はしなかった。だから後半は聞いていなかったけれど、それが仁王の思うツボであったことに後から気づいて、してやられたと唇を噛んだ。
・・・
私はそもそも、他人の心配をしている場合ではなかったのだ。数日前、緑の犬を黒い白馬だと言った仁王のことを、私は少しだけ心配して、あとは少しだけの同情もあった。馬ですと言い張って、先生に渡す様子を、遠くから見て鼻で笑ったりもした。
もちろんそれが美術の課題であることも覚えていたけれど、自分がそれを出していないことに、今日気づいた。ちなみに締切は昨日である。流石に頭を抱えて、教室で画用紙と対峙するのは必然だ。
「何しとるんじゃ」
つい反射で、体が跳ねた。手に持っていた絵の具は、跳ねた通りに線を引いた。不自然な青い線が妙に目立つ。
「う、わ最悪」
「派手にはみ出したのう」
「……誰のせいよ」
あなたのせいですよ、と睨んでみても、けろっとした表情を崩さない。
「貸して」
「いやだ」
「直しちゃる」
「はあ…………」
悪戯好きだったり掴めなかったり、仁王のすること半分以上は意味のないことや、悪い事だと知っている。それと同時に、器用な人間であることも知っていたし、残りの半分の本質は良い人であることもまた、知っていた。
筆を渡せば、ひどくご満悦だった。直す、なんて言うからてっきり白でも付け足すのかと思ったけれど、それは未だ、青のままだ。
ずっと見ているのも気が引けて、窓の外に視線を移す。空の色と、自分の状況が同じに見えて、つい笑ってしまった。
「楽しいことでもあったんか」
「別に?」
「ほれ、出来たぞ」
そう言われて視線を戻す。出来た、というわりには、あまりきれいではなくて、というよりは、さっきよりも汚くなっている気がする。……やられた。彼の半分はやさしさだけど、半分は頭だけが良くなった悪戯好きの子どもであるという、あまりに大事なことを忘れていた。
いつもなら溜め息で済ませてしまうけど、そういう訳にはいかない。
「あのさあ、」
「そう怒りなさんな。カワイイ顔が台無しぜよ」
「そうやって、いっつも揶揄うんだから! ほんと、最悪……」
頭を抱えている間にも、仁王は落書きを続けていた。足りなくなったのか、黒の絵の具をパレットに出しながら。ここまで来たら、相手をする方が難しい。というより面倒くさい。
それでも放って置けないのがこの男であり、私なのだ。つくづく甘いと自虐しながら、仁王の左手の先を眺めていた。
私の絵の上に、黒い馬ができあがる。きっとこれを、また白馬だとか言うのだろうと考えた。尻尾を描いていた手がぴたりと止まったせいで、私の目も動きを止める。筆が、少し離れたかと思うと、また紙の上を滑り始めた。
それはどうやら、文字のようだった。完成する様を、頬杖をついて眺める。まずひらがなで、す。その後に、きと続いた。3文字目は一向に書かれなくて、
「は、」
思わず顔を上げてしまったのが、運の尽きだった。まるで悪い笑みを浮かべていて、この確信犯がと悪態をついたのは頭の中だけで、きっと、取り繕えなかった表情はひどかったと思う。
「顔真っ赤」
「う、うるさい! 誰のせいよ!」
今は別に、仁王のせいではなかったけど、押し付けずにはいられなかった。
「んじゃ、イエスは?」
「なんでイエスしかないの?!」
「別にノーでも良えが」
終始、意地の悪そうな笑みを浮かべている。それが無性に腹立たしい。知っているくせに、分かっているからきっと、私に言わせたいのだと思う。その至極真っ当な理由が、面白そうだから、というそれだけであることも知っていたので、ここでイエスだけを伝えるのは、癪に障るのだ。だからこれは、苦肉の策だった。
「…………ちょっと考えて良い?」
「1分やるぜよ」
「1週間!」
最後はついに言い逃げた。課題のことなんかすっかり忘れて、教室を飛び出す。
明日が土曜日で良かった。全くどうして、どんな顔をして会えば良いというのだ。
・・・
仁王は、器用だ。そんな人間が悪戯を好めばどうなるか、考えなくても分かる。だから本当に、面倒くさくてどうしようもない人だと思っていたのに、それが嫌じゃないと気づいたのはいつだったか。
ただ、もうちょっと他にあったと思う。中学生なのだから、校舎裏に呼ばれたり、卒業式の日に思い出の場所に行ったり、2人きりの教室…………ではあったけど、もっとカッコイイ言葉とかはなかったのだろうか。こんな私でもロマンチストなのだ。まあ、あべこべの好きなやつに、王道を説いても仕方がない。
土曜日に感謝したりしてみたせいで、月曜日の登校は憂鬱だった。仁王の様子が変わりないことに安心して、だからこそ、今日が1番憂鬱である。
あれからちょうど1週間、今日は金曜日である。1週間、と吐き捨てた自分を呪った。いっそのこと1年くらいにしておけば良かった。ジェイソンが来るわけではないと言い聞かせて、重い玄関を開けた。
「なにこれ」
鍵を掛けようとして、足元にあるそれに気がつく。
数秒眺めてから、薔薇だと理解した。棘はきれいになくなっているから、買ってきたものか、そうでなくても人の手が加わったものだろう。
こんな所に自然に有るものではない。一体誰が、まで考えれば、1人の顔しか思い浮かばない自分も、大概だと思った。
「……はぁ」
妙に疲れる登校だった。玄関先に落ちていたものと同じものが、今度は自転車のカゴに入っていた。これもまた同じで、棘がない。そうやって集めた薔薇は11本で、今、靴箱に入っていたこれで12本目である。ご丁寧に包み紙まで入っているから、きっとこれが最後なのだろうと思った。
彼の思い通りに事を運ぶのは癪だけど、知っていながらそうせずにはいられない。きちんと花束にしてから、靴を履き替えた。
教室に入ると、このワケの分からないことを仕組んだ張本人は、机に座っていた。
「行儀悪い」
「待ちくたびれたぜよ」
もしかしたら忘れてくれているのではないか、という可能性は、朝の時点で0だった。1時間早く来て、なんてメールがあれば、そうしてしまうのは私の甘さだ。
だからきちんと、答えは用意してきた。そもそも用意する答えがイエスしかないのだ。これが全く、彼の言う通りなのだから仕方がない。だからこの1週間はただの、心の準備期間だったわけで。
ふぅ、と息を吐く。準備期間なんて言って、何も準備していないのだからタチが悪い。
「……あのさ、先週の、その、こたえだけど」
「ダーズンローズって知っとる?」
は。開いた口を、塞ぐことすら忘れてしまった。準備なんて到底出来なかったけれど、それでも伝えようと思ったイエスを、明後日の方向に投げ出された。呆れた。バカみたいに大きな溜め息を吐いて、
「そのくらい知ってる」
「んじゃ、イエス、ちょーだい」
私の手の中にある、12本の薔薇を指して言う。大体これ、私が集めてきたんだけど。嫌味を言うことは忘れず、そのうちの1本を手に取る。
「……どうぞ」
「ロマンチックのカケラもないのう」
それはこっちの台詞である。思わず、出した手を引っ込めた。少しだけ睨んでみたが、やっぱり意地の悪い笑みを浮かべたままだ。
「その薔薇、何色じゃ」
仁王は椅子にのせた足を遊ばせながら、口を開いた。それから言った言葉は、どうして今言うのか、というようなもので。
「赤だけど」
「本当に?」
念を押されなくても、どこからどう見ても赤だった。だからもう一度、赤だと伝えてみたけれど、やっぱりまた、尋ねられる。
「…………青。この薔薇、青色よ」
だから少し、面倒くさくなったと言った方が良いかもしれない。意味のない会話を止める為に、適当に言った。
……いや、きっとそうではない。適当であれば黒と言った方が良かったから、青と言ったのは、私がこれを、青であって欲しいと願ったからかもしれない。
まあ、緑の犬を黒い白馬なんて言う彼のことだ。きっと、色なんてさして問題ではない。もう良いだろう、と再び手を差し出して、
「え、」
「……もう一度聞くが、」
その薔薇、何色じゃ。そんな言葉を遠くで聞きながら、視線は指の間の、1本の薔薇から動かなかった。
「……青…」
確かにさっきまで赤色だったそれは、何回見ても、瞬きをしてみても青色だった。青になったそれと、未だ赤色の11本と、仁王の表情を順番に見て、つまり、動揺していた。
呆然としたまま動けない。それを良しとしたのか、青い薔薇は、するりと私の指から抜けた。そこでやっと、我に返る。
「ろ、ロマンチックの、カケラも無さすぎ!」
「十分頑張ったナリ。褒めてほしいぜよ」
「私が、何もしてない!」
私だって、ずっと好きだったというのに。先に、ひた隠したその感情を表に出したのは彼の方で、私はそのこたえすら、碌に返せなかったのだから。
「これで十分じゃ」
ああ、半分は悪戯好きの子どもだけど、残りの半分はやさしさであることを忘れていた。
確かに、赤も白も黒も、きっと私にはそんなことを言う勇気はないだろう。好きだと言われて、私もそうだと返すことが精一杯だ。だから、好きとか愛しているというよりは、夢を叶えてもらったとか、奇跡に近いとか、そういう言葉の方が似合っていた。
たくさんの選択肢があって、その中から、私が青を選ぶことも、きっとお見通しだったのだろう。仁王の胸ポケットにおさまった、ただ1輪浮いた色をしたそれを見て思った。
「あのさ、私が黒とか言ってたら、どうしたの?」
タネと仕掛けのあるそれを指して言えば、何がおかしかったのか、声に出して笑われた。
「おまんが黒って言ったら、黒色じゃ」
「でもその手品、青しか用意してないんじゃ…」
「タネも仕掛けもないき、黒言うたら黒」
……確かに、緑の犬を、以下略。けれど、最初は分からなかったその言葉が、少しは、ほんのちょっぴりの少しだけなら分かった気がする。
要は私が、それを何だと思うかの、気持ちの問題で。きっと今でも、白だと思えば白だし、黒だと思えば黒なのだろう。ただ根本では青を望んだから、青色なだけで。
いつか、赤色くらいは渡せるようになるだろうか。そう考えながら見た11本の花束は、青かった。