黒髪

「付き合って欲しい」

3月の終わりである。
これは、全てを置いていこうと考えた自分の、只の我侭だった。

「付き合って『ください』じゃないの?」

これは、誰よりも捻じ曲がっていて、誰よりもまっすぐな、彼女のこたえである。



中学3年生、おわりの春。今までずっと、同じ道を歩んできた茜は、突然、違う道を歩きたいと言った。繋ぎ止めようとした、何の捻りもない、飾りもない告白は、粉々に砕かれすぎて砂になったのである。
あれから半年、学校生活も、私生活も特に変わりはない。もう少し、寂しくなると思っていた予想が、当たらなかったことに驚く。というのも、

「おはよう」
「ああ、おはよう」

朝、家を出てから初めての会話は、毎日同じだった。
茜はいつもそこで、背中まで伸びる長い髪を、風に揺らしていた。


茜は突然、東京の高校に行くと言い出した。全くどうして、付属校に入ったんだと止めてはみたけれど、まるで効果はない。茜は口が強かった。いくつかの、至極真当な意見を述べてから、

「そろそろ蓮二離れしないと、ダメ人間になる」

この言葉が、トドメになった。
つまるところ、墓穴である。世話を焼きすぎたのだ。確かに、精市はよく、柳はあの子のおかあさんなの? と冗談めかして言っていたが、それを真に受けなかった、俺のミスと言っても良い。

『蓮二離れ』を宣言した彼女が、ではどうして、毎日会いにくるのか。何日経っても解決されない疑問だったが、もし仮に、尋ねてしまったとすれば、明日はもう来ないだろう。そういう人である。それを知っていたから、気づかないフリをしていた。


それが、この半年間の、事のあらましである。つまりあの半年を境に、自分を取り巻く環境はがらりと変わってしまった。
ある日を境に、茜が待っていることはなくなった。別にあれを尋ねた訳でも、喧嘩をしたわけでもない。急に、ふっと、俺の世界から消えた。

悲しみとか穴というよりは、一種の不安だった。電話をしてみようか、どうしようかと考えて、格好のつかない告白を思い出して、やめた。
やめたと言っても、履歴から、彼女の名前を押すか押さないかという、瀬戸際からは動かないのである。何故かというと、こういう時は面倒をかけた方が良いと、知っているからだ。
電話をすれば頼んでいないと小言が始まり、何もしなければその100倍は拗ねるような、とにかく面倒くさい人だった。それを、厄介だと思っても、嫌になることはない。日向茜という女の不思議である。

悩んだ挙句、何もしなかった。本来の目的を思い出したのだ。これは、蓮二離れである。だから、自分は、この柳蓮二だけは絶対に、世話を焼いてはいけないのだ。

「というわけで、頼む」
「……馬鹿じゃないの?」

無論ごもっともではあったし、先程の、何もしなかったには語弊が生じた。いや、何もしなかったという過去形であれば、間違いはないのだが。
逆転の発想、俺が連絡を出来ないなら他の人に頼もう。そう考え、偶然、昼食を囲んだ精市に頼めば、馬鹿じゃないかの一言である。

「そんなに心配なら自分でしなよ」
「だから言っただろう。『蓮二離れ』だと」
「俺に頼む時点で柳が離れてないから。大丈夫だよ。うん、気にしない方が良い」

核心をつかれた。また、図星である。耳を傾けている間に、俺の弁当から焼き魚が消えたことは、この際どうでも良い。つまりは出来ないという、断固拒否の構えだった。
こうなっては仕方がない。電話はしなかったけれど、当たり障りのないメッセージを送った。結果は既読スルーというやつで、それでも一先ず、安心した。


つまり、決別である。彼女はついに、蓮二離れをより現実のものにし始めた。普通の友達でもいけないらしい。
既読スルーという、何よりも固い証拠から2週間が経った。当たり前ではあるが、返事はない。そして俺は、ないと分かっているものを毎日確認しているのだ。精市の言葉は、的を射すぎて怖かった。

それでも幼馴染であり、家が近いということは、変えようのない事実である。道端で偶然見かけた茜に、声を掛けようとする自分は、勝手に物陰に隠れていた。だってこれは、蓮二離れである。俺が声を掛けては意味がない。その言葉は、かなり理性的に、気まずかった以外の理由をつけてくれた。

外出の頻度が増えたこと以外に、特に変わった出来事は、無い。成程ストーカーの気持ちとは、こういうものか。自嘲しながらも、心配を埋められるものは、彼女の後ろ姿だけだった。


・・・


軽率な言葉を使えば驚いた。語彙を失くせば死んだ。

河原にぽつんと、佇む少女がいる。隣にある自転車は、見覚えのあるものだったけれど、その背中には、違和感しかなかった。

長い黒髪は、彼女の特徴でもあり、誇りでもあった。それがばっさりと、切られていたのである。
自分が髪を切った時に、冗談で、お前も切れば良いという話をしたことがある。絶対に似合わないという確信を持っての一言で、ただ一蹴されるだけだと思っていた。だから、ショートはお姉ちゃんと被るから嫌だ、と具体的に断られた事が印象的で、それは天変地異というか、青天の霹靂というか、何と言えば良いのやら。

だからつい、肩を掴んだのだ。正当な理由だと思い込んでいたそれを全て忘れて、気づけば、茜の隣にに座っていた。

「何かあったのか?」

そう、尋ねなければ気が済まない程、空前絶後のようなものだったのである。
茜は、俺とは反対の方向を向いて、長い溜め息を吐き出す。

「別に」

彼女の別には、何かあったと解釈しなければならない。しかし無理に刺激しても、言ってくれたりはしないのだ。その辺り非常に面倒ではあるが、何年の付き合いだと思う。会話の仕方くらいはよく知っていた。

「失恋でもしたのか?」

こう尋ねれば、そんな訳ない、に続けて話し始めるだろう。回りくどくはあるが、分かってしまえば可愛いのである。そう思いながら続きを待てば、

「失恋しなきゃ、切っちゃいけないの」

と、噛みつかれてしまった。どうやらハズレらしい。自分がハズレを言うなど、全くの予想外すぎて考えられない。偶然、虫の居所が悪かったのだろうか。それともこれすら、蓮二離れの一環なのだろうか。
長く考える間に、答えをくれたのは茜の方だった。

「あの女が伸ばしてるなんて、知らなかった」

心と体は別物だ。理解する前に身体が動くこともあれば、彼女のこころを知って尚、動けないこともある。今は後者だ。
つまるところ、何を言いたいのかとか、何があったのかを少しだけ理解したというのに、口は何も言ってくれなかったのである。会話がなければ、ここにいる意味もない。茜は自転車を引きずって、俺は未だ、立てなかった。


・・・


「生きてる?」

そういう冗談を言うのは、1人しかいない。幸村精市その人である。

「……死んでいるように見えるか?」
「見えなかったら言ってないよ」

これは心配と見せかけて、揶揄われている。中々鋭いところは時折こうやって、面倒である。だから至ってふつう、ごくふつうの、何もない風を装っていたというのに。どうやら徒労に終わったみたいだ。

今俺が傷心している理由は、茜の蓮二離れが深刻化した事とはまるで一切関係が無い。いや、全くの無関係と切り捨てるのは早計だったが、別の理由があると言った方が、語弊がないと思う。

茜が「あの女」と呼んだ人には心当たりがあった。茜の、実の姉である。茜の姉は、あまり公言をしたくないような仕事をしていた。この仕事が成り立つイコールそういうことよ。と、当の本人はそう言うのだが、茜は、仕事自体をあまり良く思っていない。
本人でダメならそっちだ。そう思って、姉の方へ連絡を取ってみたのは、昨夜のことだった。

『最近、茜は変わりないかしら』

大アリだ。何せあの、自慢の長髪を切ったのだから。そう伝えれば、電話越しに笑われた。
まあ当然よね。東京ではあんまりうまくいってないみたいだから。私と間違えられればもう立場ないものね。その口調があまりに軽くて、少しだけ苛ついたことには、気づかれていなかったと思うが。

『ま、茜に何があっても、蓮二くんがいるから大丈夫ね』

それがそう、大丈夫じゃないのだ。そう伝えることは憚られた。喧嘩をしているように思われそうで、端的に言えば嫌だった。

つまり、知ってしまったのである。高校では、うまくやっていないらしい。あの性格を考えれば無理もない。だから、その可能性から目を瞑ったのは失策でしかなかった。そんな、うまく付き合えない周りが、茜によく似た、あまり社会的立場の無い女性を見つけて、あとはもう、考えなくても分かるだろう。
俺は、きっと彼女に、してやれることがあった筈だ。

「それでいじけてるんだ」
「イジケではない」

そうだ、断じて。ショックとか、傷心とかの方が正しい。そう訂正したのに、精市は笑うばかりで埒が明かない。

「いじけてる暇があったら、他にやるべきことがあるだろう?」

と、分かりやすい慰めを受けても、頭は何も考えていないのである。



つい、河川敷を見てしまえば、昨日と同じ影があって、はじめに目を疑った。何度瞬きをしても消えなくて、そこでやっと、現実だと理解したのである。見覚えのある自転車と、見慣れない背中だった。
茜は、ぽつんとそこに佇んでいた。昨日とは違って、行くか行かないかを、悩む。やがて、足を一歩前に出した。

「何かあったのか?」

敢えて、昨日と同じ言葉を選ぶ。茜は特に驚くことはなかったけれど、口調が、怒っているようにも聞こえた。

「昨日、誰かさんがあの女に電話したの」

分かりやすい皮肉だった。それを、鼻で笑えば、拗ねたような表情が、俺の方を向いた。

「何よ」
「何も?」

何もないなら、帰れば。そっけない言葉を投げ飛ばされて、昨日の俺であれば、傷ついてそのまま帰ったかもしれない。けれど、今日であったことは幸いだった。何故なら、気づいてしまったからである。

俺は、俺が今するべきことに、やっと気づくことが出来た。それは、随分と前から出来たものだったし、随分前に、したこともあった。その時の選択を間違えていたと、後になって分かれば恥ずかしい限りなのだが、こと恋愛に対してだけは、計算も期待値も無意味なのである。

こんな日に限って、風の音がうるさい。できるだけ静かな時を選んで、口を開いた。

「俺は、お前が好きだ」

たった3文字で、心が躍る。同じことを言って、一度俺は、玉砕した。じゃあそれから何か変わったかと言われたら、何も変わっていない。いつだって輝いて見えたし、ふとした瞬間に、この、好きだという気持ちを、捨てることなど一生出来ないと確信した。

好きなので、付き合ってください。きっと彼女からすれば、唐突だったに違いない。

「『ください』に直してみたが、ダメか?」
「ダメ」

答えもまた、即答だった。

「蓮二がいると、ダメになるから、ダメ」

これは言わば、繰り返しだった。3月、全てを中学の校舎に置いていこうと考えた、只の我侭の、繰り返しだった。
けれど、只本当に繰り返すだけならば、今ここで、こんな告白をする理由がない。今するべきこと、違う。あの時言うべきだった答えが、半年以上の時を経て、やっとこの一瞬で、分かったのである。

「ダメになって良いんだぞ」

出来るだけ、いじわるに見えるように、笑ってやった。


何度だって説明したいが、日向茜という人間は、本当に面倒くさい。それを知っているのは全員で、理解できるのは俺だけだと、これは自惚れでも何でもなく、そうなのだ。

こっ酷く振りながら、蓮二離れと言いながら、それでいて毎日会いに来た彼女が、どうしてそんなことをしたのか。答えは最初から1つしかなかった。それが答えであれば、半年を境に来なくなったことに説明がつかなくて、けれど、要素さえ揃ってしまえば、推測は容易い。全く、迷惑をかけたいのか、心配をさせたくないのか、どちらかにして欲しい。そして、どちらかといえば前者が良いと、思ってしまうのだ。恋とは愛とは、全く、闇だ。底なし沼に近い。

こたえはきっと、返ってこない。ダメは言えるけど、良いは言えないのだ。知っているから、求めてなんかいなかった。

「一緒に帰るか?」
「……方向、同じだから」

それがまた、肯定であることも、俺でなければ聞き逃してしまう。ああ全く、最初からこうすれば良かったのだ。誰よりも捻じ曲がっていて、誰よりもまっすぐなことなんて、ずっと前から知っていたのだから。家に帰ったらノートに追加しておこう。蓮二離れ、失敗。きっと、二度と挑戦することもないだろう。
ああ、そうだ。

髪は、長い方が似合う。

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