Perfect ham actor
悲しい物語だった。
誰にも認められなかった少女が、最悪の結末を選ぶ物語。暗い話でもどうしてこう呼ぶのか分からないけれど、面白かった。
舞台の上に立つ少女は、床に投げやられたナイフを手に取る。手首にあててからは、一瞬の出来事だった。観客席からでも分かる、白い服を汚していく赤。
思わず、身体が震えた。考える前に走り出していた。ステージに上がって、名前を呼ぶけれど、少女はぴくりとも動かなかった。
そして、気づく。
観客の視線を釘付けにしているのは、俺だった。
・・・
やっ…………てしまった。
乱雑に開けた封筒を握りしめて、震える。
「なあ、日吉……」
おそるおそる、目の前にいる人を呼んでみる。このくらいで、平生を取り戻せる訳がないけれど、何かしないと、とても落ち着かなかった。
「今から凄く嫌なこと言っていい?」
「……いや、言うな。お前の反応で大体分かった」
やれやれと首を振ったあと、俺の手から封筒を奪い取る。あ、と抗議の声を上げる頃には、中身まで物色されていた。
「A列の……どの辺だ?」
「真ん中だよ。ど真ん中。ホントに真ん中」
日吉が目を細めて眺めたこれは、劇団鑑賞のチケットだった。いつもなら、座席ごとに区分されているから、遠い席を選ぶことが出来た。けれど今回は、色々な事情があって、こうして手元に届くまで席が分からなかったのだ。端の方が良いと祈りながら開ければ、そんな俺を笑うように、最前列のど真ん中を用意してくれた。
普通なら喜ぶところだけれど、俺にとっては、絶望に近かったかもしれない。
「絶対に、用事空けておいて。1人は本当に無理」
「どうだかなあ」
「……イジワル言うなよ」
少し拗ねてやれば、分かった分かったと呆れられた。
年に数回、こうやって、心臓が高鳴る時期がある。演劇鑑賞が趣味と言えるなら、多少の格好良さはあったけれど、そんな純正な動機ではないから、言うことも躊躇ってしまう。俺がどうして、こんなことをしているかなんて、
「で、どれだ? お前の『推し』は」
日吉は、スマートフォンを弄りながら、呟く。その呼び方は好きじゃないんだけど。反論している間に向けられた画面には、今回のキービジュアルが映されていた。
「これだよ。今回は主演」
真ん中で、険しい表情をしている女性。それが、日吉の言葉を借りると俺の推しであり、今回の役をメアリーといい、名前を来栖椛といい、本名を日向茜といった。
「そろそろ、顔くらい覚えてよ」
「興味ないからな」
興味がないといいつつ、いつも連番で取ったチケットの、隣を埋めてくれるのは日吉だ。宍戸さんみたいなのを、興味ない人と呼ぶんだぞ。それを言えばきっと機嫌を損ねるから、心の中だけに留めた。
寝る前にずっと、そわそわしていた。それを30回ほど繰り返して、今日に至る。
「なんだお前」
会場で待ち合わせた日吉と落ち合って、一言目がそれだった。
「……寒いかなって」
「不審者だぞ」
もう少し、言葉を選んで欲しい。着込んだ服の上には紺色のコート、それは良かっただろう。ニット帽とネックウォーマーの間には、これだけは季節に合わない、サングラスがあった。確かにこれなら、言われても仕方がないので、否定はしなかった。
そのままなら帰る、と言われたので、ニット帽とネックウォーマーを外した。いや違う、その黒いのを1番に外せと怒られて、数分の押し問答の後、渋々と外した。
「あのなあ、舞台の上に立つ役者が、客の顔なんか一々見ないだろ」
「そんなの分からないじゃないか。最前列だよ? 偶然にでも目が合ったらどうしよう……」
「安心しろ、絶対に見てないから」
寝る前なんかより、心臓がずっとバクバクしている。落ち着けるように深呼吸をしながら、人混みと一緒に会場の中へ移動した。
始まるまでは、とても長いようで、いざ始まってしまえば短い時間だった。舞台の袖からメアリーが出てきた瞬間、声はなかったけれど、歓声があるように思えた。日向茜と呼ぶべきか、来栖椛と呼ぶべきかは分からないけれど、こういう時は、来栖椛と呼んだ方が良いのかもしれない。
来栖椛の表現力を、俺は、化物だと比喩した。とんでもない。冷静に評価をしても、すごいとか、そういう当たり前の言葉しか出てこなくて、百聞は一見にしかずだからと、とにかく見て欲しいとしか、言えなくなってしまう。
メアリーは、王家の娘だ。しかしその性格故か、身分を隠して、下層の民と共に生活していた。王家の血筋だということを隠しきれなくなったことにより、陰謀に巻き込まれたり、本当の友情を得たりするという、中世の世界観を元にしたストーリーである。
メアリーは、夜道を1人で歩いていた。危ないのは見て分かるだろうと思ったけれど、脚本上なので仕方がない。案の定、途中で、メアリーの命を狙うトレイターに遭遇する場面だった。
まだ、中盤だ。死ぬことはないだろうけど、どうなるのだろう。固唾を呑んで見守れば、メアリーはそのトレイターを、返り討ちにした。思わず、え、と声に出そうだったけれど、場所を思い出して躊躇した。けれど、空気で分かる。格好良いメアリーに、見惚れた人は俺だけではない。
メアリーは息を吐いて、歩くスピードを早める。袖につく直前に突然、後ろから、叫び声が聞こえた。もうすぐ舞台から見えなくなるはずのメアリーの目線が、そちらへ向かう。それに釣られるように後ろを見れば、さっきのトレイターと同じような格好をした人が、もの凄い勢いで舞台の上へと走りあがった。言葉として把握出来ない怒声を撒き散らしながら、ナイフを振り下ろす。メアリーはそれを、ひらりと躱した。
ここまできてやっと、これが、異常事態だと気づく。乱入したトレイターのナイフは、さっきの作り物とは違う、本物だ。これは、異常事態だ。
視線をきょろきょろと動かしてしまう。動揺したのだ。身体は、思うように動かなかったし、どう動くことが正解なのかも、分からなかった。
「鳳、」
隣から、小声で呼ばれる。鑑賞中は話したらダメだと教えたのに。だから、目線だけで、何、と尋ねれば、さらに小声で続けた。
「……これ、『イレギュラー』だろ。どうにかした方が」
「そう、だと思うけど……」
後ろを振り返る。遠い席は、見えないけれど落ち着いているようだった。最前列の、俺たちのようにあれが、本物だと気づいた人だけが、どうしようと小さな声を出したり、忙しなく辺りを見渡していた。
チッ、と。短い舌打ちが聞こえる。それと同時に立ち上がろうとした、日吉の肩を掴んだ。
「駄目だ」
「どうして、」
止めた方が良い。目が、まっすぐだったから、思わず逸らしてしまう。その隙にまた立ち上がろうとするものだから、今度は腰を掴んで止めた。
「鳳……!」
「舞台には、役者しか、……舞台に俺の……」
どうして、なんて、分からない。何と何を秤にかけて駄目だと言うのか、分からない。これは理屈でなく思考そのものだ。
誰に助けを求めればいいか分からなくて、求めた先は舞台上だった。その時一瞬、メアリーと、目が合った気がする。その視線はすぐに、乱入したトレイターへと向き直ったから、偶然かそうでないのか、分からなかった。
ドン、という、大きな音と共に、小柄なメアリーが、その大男を床に押し付けていた。意識を失ったトレイターを、ヒールで蹴りやれば、身体は観客席の方へと落ちてきた。
男を一瞥してから、目線を上げる。次はしっかりと、目が合った。かっちりと嵌った瞬間、メアリーは少しだけ笑って、それは何というか、日向茜だった。
次の瞬間にはメアリーに戻ってしまい、方向を変えて、スタスタと早足に歩き出す。このトレイターが出る前と、同じ歩幅だ。それが、『これは劇中の出来事だ』と、言い聞かせていた。
最後の拍手の量が、成功を告げていた。それにかなりの、安心感を覚えた。
外に出てから伸びをする。隣にいる日吉に目をやると、なんでか怒っている雰囲気だった。何に怒っているかなんて、聞く必要ないくらい、分かっていた。
「どうして止めた」
やっぱり、彼の方から口を開くのだから、相当だろう。
「日吉が上がってたら、台無しだったよ」
あのイレギュラーの時より、今の俺はずっと冷静だ。だから冷静に、思ったように、自分の気持ちを告げてみたけれど、それでも、納得のいかないようだった。
「そういう問題じゃない。一歩間違えれば死人が出てた。ナイフは本物だった、お前も見てただろ」
「それでも、駄目なんだ」
「見て見ぬフリをしろと?」
「……まあ、」
分かりやすく言うならば、そうだろうね。本当は少し違うから、曖昧な答え方をした。
「分かりづらく言えば?」
この返しに、少しだけ驚いた。せいぜい、そうかよと会話を打ち切るか、納得いかないと不満を残したまま終わるだけだと思ったからだ。驚いたと、顔に出してしまったようで、それに対しては、また少し怒っていたと思う。
「長くなるけど、いい?」
「ああ。」
これは、今まで誰にも、言わなかった話である。それを最初に話すのが彼になり、しかもこんな、歩きながらなんてシチュエーションは、全く考えていなかった。話さなかった理由は、たった1つで、単に恥ずかしかったからなんだけど。
「俺は、舞台を台無しにしたことがある」
・・・
10歳の頃だった。
ピアノ教室で知り合った女の子がいた。名前を、日向茜という。
彼女も、ならいごとを多彩にしていた。特に力を入れていたのが、演劇である。
「今度の劇、主役になったの」
そう話す彼女は、周りより随分と、大人びているように見えた。
「そうなんだ、おめでとう」
その報告は、まるで自分のことのように嬉しかった。茜の演技は、すごい。子どもながらにそう思った。もし学校が一緒だったら、発表会とかで見る機会がたくさんあっただろうにと、思ったほどだ。
大役を貰った茜は、台本を片手に、色んな話を俺にしてきた。話の内容、自分の役について。時には昨日練習したところと、実際にやってみせてくれた。
そしてそれを、ある日突然、疑問に思った。
「どうして、俺に演劇の話を?」
今いるのは、ピアノ教室だ。ふつうなら、ピアノの話をすると思ったのに、茜は時間を見つけては、演劇の話をしたがった。
「鳳くんに、見てほしいから」
とても真っ直ぐな言葉に射抜かれた。動けなくなってしまったうちに、茜は鞄から、1枚の紙を出す。
「公演チケット。あげる。絶対に見に来てね」
その言葉に、大きく頷いた。
劇場はとても、狭いところだった。ふつうの大きいホールなら、観客の入りが良いとは言い難い。そのくらいの人数だった。お遊戯会に近い感覚だったから、その殆どは、我が子を見に来た家族だろう。
席は特に決まっていなくて、それを良いことに、最前列の真ん中に座った。皆遠慮したせいか、演劇が始まって、最前列に座っているのは自分だけだった。
大体の内容を知っていたけれど、それでも本当に、面白かった。暗い話を、面白いと表現して良いのかは分からないけれど、それでニュアンスは通じるだろう。
主演が10歳なら、周りもそのようなものだ。同じ教室に通う子どもといったところだろう。大人役も、高校生くらいの人だった。
嗜みで演劇鑑賞をすることはあったから、プロと比べれば粗いことは、なんとなく分かった。それでも引き込まれた。全員が上手いという訳ではないし、緊張からか棒読みの子もいる。けどその中で、彼女はとても、しっかりと光っていた。ブレない芯のようなものを感じて、彼女が舞台にいる間は、目を離せなかった。
いよいよ、ラストのシーンだ。誰にも認められなかった少女は、最悪の結末を選ぶ。この物語は、主人公の死によって結ばれた。舞台の上で、たった1人で、首を切るの。何度も練習したと話しているのを知っている。
だから、拾ったナイフが、首許ではなく、手首に向かったことに、違和感を覚えた。
その違和感のおかげで、気づいてしまった。今、茜の持っているナイフは、ダミーではなく本物だ。きちんと距離を離さないと傷をつけてしまうだろう。けれど彼女が手首を選んだ理由を、一瞬にして、分かってしまった。
茜はさっくりと、本当に、片手間の作業のように手首を切った。服にも床にも、赤が滴る。
彼女の死体を残したまま幕が下り、演劇は終了だ。幕が下り始める音を聞くよりも、身体が動く方が早かった。ステージに上がって、茜の身体を揺する。ぴくりとも、動かなかった。
「茜、茜!」
何度も名前を呼ぶ。少し経って、ホールに反響した自分の声で、ふと一瞬だけ、冷静になったのだ。
観客席を見渡せば、全員の視線は、舞台上へと向いていた。けれどそれは、途中まで下りた幕でもない。主役の日向茜でもない。
舞台上に現れた、俺というイレギュラーを、ただ鬱陶しげに見ていた。
・・・
「その後彼女、入院したんだ。お見舞いに行ったけど、その時に……怒られた」
これは、俺と彼女の話ではなく、単に俺が、あの舞台の上で恥をかいた話だ。だから誰にも話せなかっただけで、それ以外の意味は無い。そう思っていたのに、話しただけで、10年抱えていた重い荷物を、下ろしたような気分だった。
「初舞台は4年前。あれに行ったのは、本当に偶然だった。それからは調べて、彼女の舞台を見に来てる。でもきっと、茜は俺のこと嫌いだから」
「……だからいつも後方席なのか」
「うん」
彼女の舞台を見たいというのは、俺の我侭だ。だから、俺は彼女を見ても、彼女は俺の事を知らなくて良い。2回目の公演でそう思ったし、その気持ちは今でも変わっていない。
「お前、意外と女々しいな」
「う、うるさい!」
茶化されて、余計に恥ずかしくなる。そんなに女々しい、だろうか。
あの時いくつも感じた視線を、思い出す度に足が竦む。10年経ってもこれだから、自分では畏怖だと思っていたこれは、確かに女々しいそのものかもしれない。
・・・
「………………」
屍だった。俺のスマホは、1通のメールを開いたままだ。
「『公演中止のお知らせ』……災難だな」
「延期とか払い戻しとか、そういう話じゃないんだよ……あぁ……」
お前、本当に大丈夫か? 真面目に心配される始末である。
それもそう、だろう。この公演をご褒美に、テストを含めて何もかも頑張ったのだ。ご褒美を取り上げられたら、何の為に頑張ったのか、分からない。
日吉は、俺から奪ったスマホを、未だ握ったままだった。
「……何してるの」
「何で中止なのかと思って」
調べてたけど。そこで言葉を止めて、やっぱりなんでもないと言い出した。
「なんでもないって……余計気になるだろ?」
見たくないけど見たい箱だ。指先を震わせながらそう聞けば、溜め息と一緒に、スマホを返された。
「なにこれ」
「だからなんでもないって言っただろ」
開かれていたページは、SNSでの情報をまとめたページだった。その中で何人ものファンが共通して言っていたのが、
『来栖椛、入院ってマジ?』
『病院近くで目撃情報』
『事件っぽいけどソースない』
なにこれ……ええー……。呆然としていると、思考停止するなと、頭を軽く叩かれる。
「噂程度、を見つけただけだ。心配する程でもないだろ」
日吉もそれを、気休めだと自覚して言った。この時、俺たちの中には共通の記憶があったと思う。この前の劇中に、舞台に上がったイレギュラーだ。結局その人がどうなったのか知らないけれど、誰かに危害を加えられる可能性が、0ではないことが、しっかりと脳裏に刻まれている。
「そう……だよね、うん。」
「公演中止なら、週末空いてるだろ」
どこか出かけようぜと、珍しく日吉からの提案だった。そうだ、休日に、一緒に劇場へ行くことはあっても、そうやって遊ぶのは久しぶりかもしれない。慰めとかそんな感じの好意をまっすぐに受け取って、うん、と首を縦に振った。
どこに行くとか、全く予定のない待ち合わせだった。10分前に行けば、日吉は既に到着していた。
「行きたいところは?」
「特にないよ。日吉は?」
「1箇所だけ」
「じゃあ、そこから行こう」
そう返せば、日吉は少しだけ、口角を上げた気がした。それなら、早く行こう。その言葉のせいで消えてしまったから、やっぱり、気の所為だと思った。
電車に乗って、降りてからは話しながら歩く。10分くらい歩いて、会話のなくなったタイミングで、ついに切り出した。
「ところで、どこに向かってるの?」
日吉は、スマホと道の間で目線を動かしながら歩いていた。だから、行き慣れていない場所だとは思ったけれど、それ以外の見当がまるでつかない。そして、答えは簡潔だった。
「病院」
「……どこか悪いの?」
「まさか」
まあ確かに、どこか悪いのなら、こんな用事もない遊びに来るような人じゃない。それならどうして病院なのだろうか。口許に手をあてて考えていると、日吉はあっさりと答えをくれた。
「お見舞いだ」
「親戚とか?」
「来栖椛」
肩にかけていたバッグは、するっとアスファルトに落ちた。
「え……? 何だって?」
「だから、来栖椛のお見舞い」
これはどういう状況だろうか。興味がないと顔すら覚えなかった日吉もついに茜の、来栖椛のファンになってしまったのだろうか。冷静であればそれを尋ねただろうけど、生憎冷静ではいられなかった。
「本当に入院だとしても、迷惑だろ。こうやって調べられるなんて」
「いや、本人に教えてもらったから問題ない」
「本人……?」
いやなぜ。一体どうやって。ききたいことが山ほどある。その半分も消化出来ないまま、大きな病院の前まで来ていた。
「5階の、512だそうだ」
「え……本当に公認なの? 大丈夫?」
「大丈夫だから、行ってこいよ」
そう言いながら、日吉は、ずっと持っていた紙袋を渡してきた。中には、生花が入っていた。
背中を押す急かしだ。まだ色々、聞かなければいけないことはあったけど、今はただ、ありがとうと言って、背中を向けることしかできなかった。
けれどその足は、5階に着いた瞬間、止まってしまう。512号室はほんの少し先だけど、どうしても、その先へ進むことが出来なかった。10年前のことを思い出してしまって、思考も足も、思ったようには進めなくなってしまった。
「すみません、」
サービスステーションにいる女性へ、声をかける。
「面会ですか? お名前と面会証を……」
「あ、いえ、そうじゃなくて」
俺は左手に持った紙袋を、そのまま手渡す。
「これを512号室の、日向さんへ」
数秒経ってから、看護師さんは、分かりましたありがとうございますと返してくれた。それを聞いて、ほっとする。大きく息を吐いて、くだりのエレベーターを待つ。
短い電子音を鳴らして、ドアが開くのを確認してから、再び足は動かなくなった。結局閉まるまで動いてくれなくて、エレベーターから出てきた人物と、しっかり、顔を合わせてしまうのだ。
「……私に会わずに帰るなんて、良い度胸ね」
ああ、なんて、タイミングの悪い。
「別の人のお見舞い……です。お構いなく……」
歯切れの悪い言葉を残して、もう一度、下向きの三角を押す。意外とすぐに来たエレベーターに乗ろうとすれば、肩を掴まれて、開いたそれをスルーしてしまった。後ろを向けば、さっき紙袋を託した看護師さんが、ニコニコと、俺と彼女を交互に見つめていた。
「日向さん、これ、さっきこの人から預かったの」
そう言いながら紙袋を渡す。ああなんて、最悪だ。おのれ確信犯。流石の俺でも少し怒りそうだけど、怒る暇なんてなかった。
「へえ、別の人のお見舞いなんだ?」
「…………君、ちょっと性格悪くなった?」
さあ、どうだろうね。そう言いながら笑った顔は、10年前と何も変わりなかった。
・・・
「自分が何したか分かってるの」
少女は、左手に巻かれた包帯を撫でながら、言った。
心配だった。死ぬかもしれないと思った。理由はたくさん出てきたけれど、声に出せば、言い訳になることを知っていた。だから、言えなかった。
「舞台には、役者しか立てないの」
知っている。知っていた。彼女がどんな気持ちで、あそこに立っているのか、知っていた。
「あそこにいたのは、日向茜じゃなくて、主人公のナツキ」
知っていた。あのシーンに、あの場所に、日向茜なんて、存在しなかった。
「あの舞台に、あなたの役は無かったわ」
当然、知っていた。
「…………帰って。」
もう、会いたくない。そう思わせる拒絶。
お見舞いにと持ってきたプレゼントは、まだ自分の手の中にあった。
・・・
茜と呼ぶべきか、日向と、日向さんと呼ぶべきか悩んで、後者を選んだ。名前で呼べるほど親しかったのは、きっとあの、病室で別れる前の話だ。
「あなたの友達、随分とお節介ね」
日向さんはそう言いながら、枕元に置いてある封筒を手に取った。来栖椛さんへ。その筆跡は日吉のものに近い。
「鳳君のことが書いてあって、……結構恥ずかしいわ。あ、読む?」
恥ずかしかったと言われたものを、自分で読めるわけがない。遠慮すれば、寂しそうに、そう、と呟いた。
「この前、観に来てくれてありがとう」
「えっ、ああ……」
「偶然だと思ったけど、手紙に書いてあった。ずっと観に来てたのね」
「………………ごめん」
つい、謝ってしまう。色々、余計なことを書いたみたいだ。詳しくは日吉に問い詰めた方が良いと思って、彼女には何も聞かないようにしようと思った。
日向さんは、暫く押し黙った。何を言おうか、悩んでいるように見える。やっと開かれた口から、飛び出る言葉に、少しだけ身構えてしまった。
「どうだった? メアリー」
だから、悩んだ割にはごく当たり前のような言葉が飛んできて、驚く。
「良かったよ、とても」
「私、……最後まで、メアリーだった?」
それが、何を指しているかなんてすぐに分かった。
「ずっと、メアリーだったよ」
嘘も偽りもない言葉だ。それを聞いた途端、ほっとしたらしい。良かったと呟きながら、胸に手をあてていた。
「どうしても、鳳君と話がしたくて。この友達にお願いしてみたの」
「俺と?」
「うん。少しだけ、いいかな」
遠慮がちに言われた言葉に、ゆっくりと、頷いた。それを確認してから、日向さんは、左腕の裾をあげる。きれいな色白の肌に似合わない、1本の線が混じっていた。
「これを見る度に、鳳君のこと、思い出す」
もしかしたら、今からの話は、耐えられないものかもしれないと、予感した。俺への10年間溜め続けた恨みだろうか。何十、何百の目線を思い出して、吐き気がした。
「思い出す度に…………私ね、1つだけ、言いたいことがあって」
線を指でなぞりながら、呟くような声だった。うっかりしていると聴き逃してしまいそうなくらい、細かった。
「私、あんな酷いことより先に、最初に言うべきだった」
ありがとう。
その5文字が、頭に響く。
……違う。ちがう。なんで今更、そんなことを言うんだ。
あの時、間違っていたのは俺の方だ。10年前、無理やりそう思って、閉じ込めた感情が溢れる。溢れた感情は言葉ではなく、涙になった。
「やだ、泣かないで。続きあるんだから」
声色は慌てていた。差し出されたティッシュの箱から、3枚くらい引き抜いて、目頭にあてる。
「今でも、来栖椛なら、貴方の方が間違いって言うでしょうね。でも私は、日向茜は、鳳君が心配してくれて嬉しかった」
そう言いながら、ティッシュを出しては、俺に差し出してきた。使い物にならなくなったそれをゴミ箱へ入れれば、次には新しいものがやってくる。当分、止みそうにないと思った。
「だから、どっちが正解とかじゃないんだけど……もう1つ言わせて。この前は、舞台に上がらないでくれて、ありがとう」
それは、全く正反対のありがとうだった。
「どっちも、間違いじゃないって気づいて思ったの。そもそも舞台上から、お客さんを心配させた私が悪いって。だからこの前は、私を心配しないで、信じてくれて、ありがとう……って、ことで」
時折俯きながら、言葉を探しながら、日向さんはそう言った。心の中では、否定するばかりだ。けれど、言葉にはならない。あれは、彼女を信じたからじゃなくて、ただ、動けなかっただけだ。何百もの目が、目線が、俺をあの場に縛りつけただけだというのに。上がらなくて良かったは結果論で、一歩間違えれば死人が出ていたという、日吉の言葉の方が、的を射ていた。
言い終わった、彼女の指が震えていることに気づいた。きっと、思い出して震えているのだ。あの時死に向かった血の臭いとか、この前眼前にあった死とかを、考えているのだ。
自分の無力さに腹が立つ。震えて、怖がる彼女を、慰める権利も、抱きしめる権利も、どこか昔に置いてきてしまった。
「君は……」
やっとの思いで、口を開く。続きはなかなか出てこなかったけれど、日向さんは、待ってくれた。
気づかないフリをしていた。
舞台の上の彼女は、きっと、いつも震えていた。何かに怯えるようだった。それを隠すための強い芯だった。
彼女の中にある芯は、いかなるイレギュラーがあろうと、役であり続けようという、歪な芯だ。その歪な芯を真っ直ぐだと言い張って、それ以外を見ることを、辞めていた。
来栖椛は、最高の役者だろう。それは、4年間見続けてきたから、絶対に言い切れる。
それなら、舞台の上にいる、日向茜は?
「どうして、舞台に立つの?」
辛いだろう。苦しいだろう。いつ辞めたって良かったはずだ。それを10年も――きっと、俺が知らない困難もあっただろう――続けたのだ。並大抵のことではない。
「いつ降りても、良かったんだろ?」
言ってしまってからの後悔は、遅かった。謝ろうとした口を、塞がれる。唇に触れた人差し指が、あつい。いや、あついのは指じゃなくて、
「言う通りよ。キツイと思ったし、いつ降りようかって考えたこともある。でも、私は降りなかった」
どうしてか分かる? きっと、答えられないことを分かっていて、そう尋ねたと思う。
「鳳君に、見てほしかったから」
・・・
「振替公演、来週だって」
その情報を見て、思わずにやついてしまった。話しかけた日吉に、ストレートに気持ち悪いと言わせる程だ。
「来週は予定あるから無理だな」
「ああ、別にいいよ。1人で行くから」
座席もS席で取り直したし、今では延期に感謝をしたいくらいだ。チケットの席番号と、劇場のホームページにある座席表を見比べるだけで、幸せだ。
「……お前、意外と薄情だよな」
「そうかなあ」
そうだよ、まあ、知ってるけど。そんな小言が聞こえた気がするけれど、きっと数秒後には忘れているだろう。あまりに、幸福度が高すぎるから、そういったものは些細な出来事だ。
「……ホント気持ち悪いな」
「2回も言う? それ」
「事実だからな。何だ、デートの約束でもしてるのか?」
「え……どうして分かったの?」
「見てれば分かる」
全く、誰が取り持ってやったと……という独り言は、聞こえないフリをした。というか、聞こえない。服、どうしようかなとか、いつも考えないことを考えるだけで、精一杯だった。