免罪符
5分後のチャイムを待ちながら、隣に座った柳生を見て、口から零れ出たのは溜め息だった。
「……仁王見てない?」
「見ていませんね。ですが仁王君なら……」
「良いよ。大丈夫、ありがとう」
こういう時は決まって屋上にいる。格好のサボり場だし、成績さえ悪くなければ、特に先生は何も言わなかった。いや、最初は言っていたのだけど、もう疲れてしまったらしい。成績が良いならお咎めなし。それに甘えて、サボりの増えた仁王のことを心配しているわけではない。仮にしていたとしても、それは仁王に対してでは無い。
背中に妙に、視線が突き刺さっている気がした。
授業をサボるのは、私の精神衛生上良くない。しかし私よりも、精神のどうぞよろしくない人がいるらしい。屋上のドアを遠慮もなく開けて、彼がいるであろう日陰の方へと回った。
「……煙草はやめなよ」
「おまんには関係なか」
色の白い指に挟まっていたのは、この歳の人間には絶対に縁のないものだった。隣に置いていたジュースの缶の中にそれを捨てて、つまらなさそうに遠くを見た。
私は人の人生にそこまで、口出しをするほど興味が無い。法律で禁止された、特にお酒や煙草をやりたがるのは、思春期こそよくあるものだ。だから別に、そういう道徳的なことを言うつもりは無い。だからと言って推奨するわけでもなかった。
つまり、今やめろと言ったのは、単に体の心配だった。
いつも通りであれば、隣に座ってただ一緒にサボる。それが、彼に対するカウンセリングだ。自己満足の域を出ないそれを、ただ黙って、許容してくれた。嫌だと言われたらやめるけど、そうは絶対に言わないだろうと、妙な自信はあった。
しかし彼の非行もここまで来ると、心配の量は一気に跳ね上がるのだ。少しはひねくれた奴だと思う。それを肯定することが私の仕事だけど、今回は流石に擁護する方が難しい。
右手に握られたままの煙草のパッケージを奪えば、分かりやすく口を尖らせた。
「煙草は嫌いって、言ってたじゃない」
「吸うてみたくなったんじゃ」
そういうお年頃ぜよ。それだけ言って、勝手に私の肩を借りて、寝息を立て始めた。
ああもう、本当にこの人は。
・・・
柳生とは、小学からの腐れ縁で、形だけでも彼氏だった。柳生の良いところは沢山言える自信がある。悪いところもまたしかり。ゴルフに興味を持った時は年相応のことをしろと言ってみた気もしなくもない。今はテニスをしている。そしてその、テニスに誘ってくれたのは仁王らしい。だから、仁王のことも嫌いじゃなかった。あの人は、柳生が生きていく上で必要な人だから。
「日向さん」
他人行儀な呼ばれ方に、顔を顰める。それをいつもの顔に戻してから、振り返った。
「どうしたの?」
「先生に、プリントを配ってと頼まれまして。良ければ手伝って欲しいのですが…… 」
手には大量のプリントが抱えられていた。その山の半分くらいを受け取る。
「私、A組から行くね」
「助かります。…………ああ、あと」
言い忘れたことを思い出したようだ。それでまた柳生の方を見れば、申し訳なさそうに眉を下げていた。
「すみません。今日は委員会があるので、遅くなります」
「分かった。じゃあ図書室で待ってる」
特別なことが下手くそな柳生に合わせて、デートなんて殆どしない。だから、一緒に帰る、というイベントだけは私が強制していた。
努めて表情を崩さずにそう言えば、紳士は溜め息を吐く寸前だった。
「遅くなりますから」
「……分かってるよ」
柳生の「遅くなる」は、一緒に帰りたくないと翻訳しなくちゃいけないのだ。
こういう時は大抵、怒っている。表情に出さないところは流石の紳士だけど、行動に気を遣って気づかなければいけない、私の身にもなって欲しい。まあ、怒っている気がしたから噛み付いたのだけど、どうやらその予想は正解だったらしい。
それにしても、帰りたくないならそうと、素直に言えばいいのだ。前から思っていることだけど、本人にそれを伝えることは難しかったから、察する自分に折れてしまった。
1人で帰るのはいつぶりだろう。先月、おつかいを間違えたとかでプチ喧嘩をした時が最新だったと思うけど、今思い返せば、どうしてあんなことで喧嘩になったのか分からない。私も彼も、情緒が不安定なのだ。互いに支えあってなんて、理想の夫婦像を掲げる気はないけれど、私のことは一旦棚に上げても、あっちは誰かが支えてあげないと生きていけない人だ。だからストレスを与える行動は極力避けていた。あの人は、生きているだけで人一倍ストレスを抱える人だと思っていたから。
「あ、」
しまった。誰もいない昇降口で、ぽつりと呟いた。外を見れば小雨が降っていて、この調子だとやがて大粒になるだろう。私の手元には傘がなくて、それで呟いたのである。
この調子なら、駅まで走れば大丈夫だろうか。それか、遠回りなるけど一旦バスに乗ってしまうか。そんなことを考えていれば、後ろから肩を叩かれた。
驚いて振り返れば、少しだけ悪い顔をした仁王が立っていた。
「何しとるんじゃ」
「傘がないの」
「いつも柳生に借りとるからのう」
「……うるさい」
仁王は、こういう弱みは全て握る人だ。だからそう言われるのを、予想しない訳ではなかった。
柳生は、真面目だ。絶対に天気予報を見るから、傘を忘れることがまずないというのに、鞄にはきちんと、折り畳み傘が入っている。しかも2本。一度、傘を忘れた日に借りてしまえば、どうせいつも一緒に帰るのだ。自分で傘を持ってくる習慣なんて、消えてしまうのも時間の問題である。
解決策がない以上、ここにいても仕方がない。雨が強くなる前に出た方がまだマシだ。手のひらで目の上の辺りだけを覆って、外へと出る。少し出ただけで、制服はあっさり濡れてしまった。それを想像したのに、思ったより雨は少なかったようだ。確認しようと目線を上げれば、視界は黒に覆われた。それは隣にいる仁王が差した傘の色だと、数秒かけて理解した。
「傘、貸してやる」
仁王から善意を受け取ろうものなら、後から何を要求されるか分かったものではない。だから断ろうとしたけれど、私を笑うように雨足は強くなった。こうなっては仕方がない。
「本当にいいの?」
「ああ。けど、1本しかないき、」
2人で1本か。相合傘ともいったが、仁王はそこまでは言わなかった。私に言わせようとしたのだと思う。
そういうのは、少しだけ困る。あの紳士、顔には出さないけど嫉妬がひどい。嫉妬深い、と一言で説明できれば良いのだけど、それとは少し違うのだ。上手く説明出来ないから割愛するけど、アフターケアが面倒くさいことだけは事実だった。
だから断ろうとして、
「良いよ。帰ろう」
仁王の手の上から傘を握った。
どうして私ばっかり、気を遣わなくちゃいけないのだ。突然現れた怒りに身を任せた。柳生も大概だけど、私も自分の情緒に振り回されるのである。
・・・
授業の始まる2分前。教室へと戻り、行儀よく自分の席で本を読む柳生を見て、溜め息を吐いた。
「…………仁王は?」
「探して欲しくないそうですよ」
そう言ってから、本を閉じる。ああ全く、本当に面倒くさい。世話を焼いてしまうのは性格故だと割り切った方が良いかもしれない。
探して欲しくないと言いながら、いつもの場所にいるのがお約束というものだ。煙草の代わりに、シャボン玉を飛ばしていた。
「何、口寂しいの?」
「寂しい言うたらキスしてくれるんか?」
相変わらず、人の良くない笑みである。怒ったなら怒ったとか、どうして欲しいとか、正直に言えばいいのだ。私も彼もただ回りくどく、面倒くさいのである。互いにだから、お似合いと言えばそうだった。
シャボンを吹いていたストローを奪って、強引に口を付ける。一瞬で離れれば、もう1回と強請られるから、額にしてやった。
そうすればまた、いつものように、隣に座る。隣にいるワガママな人間は、さも当たり前のように肩を借りて、ぽつりと呟いた。
「膝、貸しんしゃい」
「……はいはい」
足を伸ばして、スカートの上に脱いだブレザーを置いてから、どうぞ、と言えば、銀髪は遠慮なく降りてきた。
「今日は傘、持ってきたんか?」
「はあ…………?」
「予報だと夕方から雨らしい。『また』相合傘して帰るかのう」
ドキリとしたのは、ピンク色というよりは青だった。どうにでもなれと思ったが、やっぱり軽率だったかもしれない。
「なあ、茜」
「なに?」
これでもかと言うほど表情を緩めて、
「大好き」
なんて言うから、心臓を締め付けられるようだった。
・・・
彼の言った通り、夕立だった。しかもこの前より酷い雨だ。走って帰ろうとも思えない。
あんなことがあっても、相変わらず傘を持たない私は、昇降口で途方に暮れていた。
「日向さん」
だからその声に助けられたような気がして、それでも妙に苛ついた。どうして私ばっかりご機嫌を取っているのだろう。それを顔にも言葉にも出さないことで、紳士より上手であろうと思ったのである。だけどもう、今日は少し面倒くさかった。
「今日は部活だから早く帰れ、じゃなかったの」
「この雨では、ありませんよ。今ミーティングが終わったところです」
一緒に帰らないと(正確には、「部活があるので遅くなります」だ)自分で言った癖に、気が変わったらしい。一体何に機嫌を良くしたのか、知っているから何も言わないけれど。本当に、ちゃんと言えとは思ってしまうけど。
「傘忘れたの」
「それは困りましたね。私の予備を貸しましょう」
柳生はそう言って、紺色の折り畳み傘をくれた。それを開こうとして、手を止める。
「何、相合傘、したいんじゃないの」
またと言ったのはそっちの方だ。そんなにしたいならしてやろう。まあ、柳生には言えないと思うけど。だから私から言ったのだ。気を遣ったつもりだったのに、柳生は困ったように笑った。
「それを言ったのは『私』ではありませんよ」
そうやって、自分を作っていくから、ストレスを溜めるというのに。
私は別に、もう長い付き合いだ。柳生の良い所も人間臭い所も、全部柳生だって知っている。だから、免罪符がないと自由に動けない様を見て、可哀想とさえ思うのだ。本人がそうしてまでも守りたいアイデンティティがあるというのなら、その考えすら柳生という人間である。だから現状は、文句は言わないし、指摘もしてやらない。けどやっぱり、疲れてしまうだろう。それに付き合うのが私のやることだけど、そろそろ私の心情だって汲み取って欲しいと、わがままを思わなくもないのである。
渡された折り畳み傘を開いて、隣を歩く。車道側を歩く柳生に、車は勢いよく泥水をかけた。
「おっと、大丈夫ですか?」
先に私に尋ねるのだから、ああ、いつもの柳生だと酷く安心した。機嫌はかなり回復したようだ。
それならもう、これは要らないだろう。屋上で返し損ねた煙草を、ポケットの中で潰した。