一人になることは許さない
コピーしたばかりの会議資料を、全部落とした。
「え、あ、ああ! すみません! ごめんなさい……」
「いや、ごめん。俺も変なこときいた」
先輩は床に散らばったそれを、一緒にかき集めてくれた。到底人に配れるものではなくなってしまい、シュレッダーにかけるやつ、と書かれた段ボールにまとめて捨てる。
「すみません、すぐ印刷し直しますね」
先輩じゃなかったら死ぬほど怒られていた。安堵なのか、心労なのか分からないため息を、誰にも見られないように吐き出した。
・・・
神様はすぐにやってきた。
あれは、王様の戯れにお付き合いをした4日後のことで、クライアントからの電話を取り次ごうとして、保留ボタンと間違えて電話を切った。大事なところだぞ、契約が打ち切られたらどうするんだ、と怒鳴られて、その間にかけ直せばいいのにと思いながら。言い返せない。ああ、死にたい。
その一瞬だけ理解力があれば良かったのに。うっかりミスなんてそういうことが多くて、1つ1つは気をつければ起きないことなのに、統計的に、1年仕事をすれば、なにかしろのミスは起こり得るのだ。それこそ、完璧な人間でない限り。
……跡部さんは、なさそうだな。なんて考えていたら、人の話を聞けと、説教を追加された。
神様がやって来た日は、家に帰れば決まって跡部さんが玄関先で待っている。タイミングがいいのか、私の心でも覗いているのか。とにかく、いつも決まって跡部さんは、ドアに寄りかかって、真っ暗な空を見つめていた。
今日は会議資料の作り直しが上司に見つかり、10分ほど時間を無駄にした。ああやっぱり、先輩じゃなかったら怒られていたという私の考えは正しかったようだ。
……――彼氏とかいる?
不意に、先輩の言葉を思い出す。思い出しただけで落としかけた鞄を、必死に持ち上げた。
「いつもより1時間遅いじゃねーの」
苛立ったように、腕時計を指して言う。これが怒りではなく心配だという事に気づいたのは、ここで会話をして三度目のことだった。
「すみません、残業で」
「……まあいい。早く入れろ」
鞄から鍵を出して、鍵穴に差し込む。カチ、と音がしてからドアを開けるまで、跡部さんは何が面白いのか、ずっと私の手元を見ていた。いつものことだけれど。
どうぞ、と言えば、砂が散らばった玄関に靴を脱ぎ捨てた。
「適当に、どうぞ」
それだけ伝えて、鞄を投げやり、自室のベッドに倒れる。疲れた。メイクを落とすのも、着替えるのも面倒だったし、突然来訪してきた跡部さんに気を遣える程の気力も残っていなかった。
「茜、」
身体を揺すられて目を開けた。目線まっすぐのところに、跡部さんの顔が見える。寝ぼけている。目を擦ったが、それは変わらなかった。
「そのまま寝るな」
「……明日休みだから、良いです」
「良くない」
跡部さんは非情にも、私がかろうじて羽織っていた毛布を引っ張る。外気に触れた体は、反射のように起き上がった。そうすればニッコリと、いや、ニヤ、と笑うものだから、ちくしょうと心の中で毒づく。彼はきっとこの疲れとは無縁なのだ。どれだけ疲れていたとしても、日常生活に支障を来たさない人間と、私のように何もかも面倒になって、後回しにしてしまう人間がいることを知らないのだ。多少感じた苛立ちを隠さないまま立ち上がれば、ふら、と立ち眩みがした。
床と頭がぶつかる想像をして、けれど何秒待っても、待ち構えていた衝撃は来なかった。すっぽりと、跡部さんの腕の中に納まっていた。
「いい。やっぱりもう寝ろ」
「どっち……」
「寝ろ」
念を押されて、そのままベッドサイドへ腰かけるように戻された。跡部さんの手のひらが、そっと耳を撫でる。眠気とあと色々に任せて目を閉じれば、す、と唇を重ねられた。
唇も手のひらも、その一瞬が過ぎれば離れていく。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
王様は随分と、穏やかな顔をしていた。
つまり、そうだ、私の中には、神様と王様が同棲している。跡部さんは気まぐれにやってきて、気まぐれに雑談をして、気まぐれにキスをして帰っていく。起きれば居ないなんていつものことだった。一度だけ、床で眠っている跡部さんを寝起きに発見して、一気に目が覚めた、というより青ざめた事がある。朝までいたのはその1回きりだった。
互いの連絡先だって知らない。だからきっと、家の前で待っているのだけど。先にアポイントメントがあれば、残業のスピードだって上がるというもので。でも私から、教えてくださいなんて言い出すことは到底出来なかった。
「明日のオフってもう用事ある?」
「何もないですよ」
「ハハハ、やっぱりそうだよね」
チェーン店のファミレスは、コスパが良い。少し前の大発見だった。先輩は仕事量も多く、いつもはサンドイッチとエナジードリンクでやり過ごしているのだけど、今日はゆっくりできるということで一緒に昼食を取っていた。
「先輩も明日、休みでしたっけ」
「うん。12連勤明けの2連休。最高」
「最高ですね……」
果たしてこれは最高なのか。連勤の数をどうにかしろと言いたいところなのだが、自分も境遇は分かっているので、会話にすることは控えた。
「この前の続きだけど」
先輩は、前菜のサラダをかきこみながら、脈絡のない話を始めた。
「はい」
「日向さんって、彼氏いるの?」
私は、前菜のサラダをテーブルにひっくり返した。
「え、だ、大丈夫?」
「あ! ええ、すみません、すみません……」
あわあわと、ペーパータオルで無駄になってしまった食材をかき集める。先輩にも悪いし、サラダにも悪いことをしてしまった。ざっと綺麗にしてから、肩を竦める。何をやっているんだろう。
「結構さ、おっちょこちょいだよね」
「すみません……」
「天然っていうか、」
「ハイ……」
「可愛いよね」
「はい……、…はい?」
聞きなれない単語に首を傾げる。先輩は真っ直ぐと私を見ていて、思わず俯いてしまった。先輩は、何を、言おうとしているのか。なんとなく予想はついたけど、それではなんだか、傲慢な気がした。
「で、彼氏いるの?」
「えっと…………」
この前から、ずっとそうだ。先輩からこの問いを投げられる度に、彼の表情が頭を過る。友達でも恋人でもない、気まぐれな王様の事を想像して、ぶんぶんと頭を振った。
「いない、ですよ」
「そっか。良かった」
何が良かったのか、とは聞けなくて。会話の続きを待っていれば、先輩はこの話題に興味がなくなったのか、ハンバーグを切り分け始めた。
ゆっくり昼食が取れた筈なのに、オフィスに戻れば妙に慌ただしかった。部署の誰かのミスで、とにかくとんでもないことになっていた。つまり、ただ言われた通り休憩をしていただけなのに、2人とも遅いと怒鳴られたのである。怒ったような上司の背中を見送ってから、先輩と2人で肩を震わせた。
「ああ、電車なくなっちゃった」
先輩がそうぼやいてから更に1時間経過して、ようやく仕事はキリの良いところまで片付いた。大きく伸びをしてから、帰り支度を始めた。先輩はタクシーだろうか。家遠いから、また仮眠室だろうかと考えていると、
「日向さん、家近かったよね」
「ええ、歩いて15分くらいですよ」
「一生のお願い。泊めて」
「えっと……汚いのと、狭いのと、寝るとこないですけど」
「床寝でいいから」
ちょうど、私のミスのせいで、オフィスで完徹させた日があったことを思い出した。いつも助けられているのだから、私にできることはしてあげたい。良いですよ、と快く答えた。
この前跡部さんが来た時に、玄関を掃除し忘れていたことを後悔した。だからこの前、掃除をしておいたのだ。今日は砂が散らかっていない。あまりいい家ではないけれど、そのくらいはしていて良かったと胸を撫で下ろした。
「やっぱり、先輩がベッド使ってください。私がこっちで寝るので」
先輩は部屋を見渡して、棒のように立っていた。あまりに狭すぎて吃驚したのだろうか。そうであれば、申し訳ないけれど。砂や埃はどうにかなっても、部屋の狭さは変えようがない。
「あ、お風呂も使って大丈夫ですし」
「日向さん」
「はい?」
「好きだ」
電気をつける直前に、真っ暗な部屋に響いた声を鮮明に記憶した。
誰が、誰を、何だって。分かっているのに、混乱したように頭は動かなくなって、スイッチにかけていた手を掴まれてから、はっと我に返った。
「先輩……?」
「好きだ」
次は、逃げられない距離だった。私は何をこたえればいいのだろう。先輩の手に力がこもる。顔を見ることが出来ない。俯いた私の額に、先輩の額がぶつかる。冷や汗がだらりと垂れる。嫌な予感がして口許を覆えば、先輩の唇は私の手のひらにぶつかった。
「……やっぱり」
「やっぱり、って、何、がですか」
「君、好きな人いるだろ」
そう言われても、分からない。思い出すように考えてみるが、やっぱり分からなかった。その間の無言を肯定と受け取ったのか、先輩は納得したように続ける。
「日向さんは、おっちょこちょいで、天然で、可愛いよ」
「………………」
「だから覚えていたほうが良い」
一瞬の出来事で、思考が追いつかない。先輩の顔は相変わらず近くにあって、その後ろの風景が壁から天井へと変わっていた。それに気づいて、事態を察する。フローリングにぶつかった背中が痛い。起き上がろうとすれば、強い力で腕ごと床に縫い付けられた。
「密室で男と二人きりにならない方が良い」
声が出ない。手も足も体重を乗せられ、逃げるなんて考えが頭から飛び出した。やっと絞り出した声は、掠れていて、こんなに距離が近くなければ、聞き取れなかったと思う。
「なん、で……」
「付き合ってと言っても君は断る」
それはもう、先輩の頭の中では決まりきったことのようだった。確かに、先輩へのそれは、恋愛感情なんかじゃない。だから分かるのだけど、分かるけれども。
「だから今から、君に酷いことをするよ。知ってるかい? 世間では、部屋に入れた時点で了承になるんだ」
淡々と、普段からは考えられないような尖った口調だった。だからきっと頭が、脳が悟っていた。逃げることは難しくて、いかに諦めるかと、いかにやり過ごすかを考え始めていた。
零れようとする涙を流すまいと、考えることを止めた。
ちょうどその時、視界がすっと、明るくなったことだけを覚えている。
・・・
妙に鼻につく。きついような、それでいて心地いいような匂いだった。それはとてもよく知っている匂いで、各段嫌いというわけではなくて、とにかくそれで目を覚ました。
部屋は電気が消えているのか、暗い。窓からほんのりと日が差していて、ああ、朝方だと認識する。私は今どこにいて、何をしているのか、いまいち分からない。徐々に思考がクリアになっていって、ようやく昨日の、というより、夜中の出来事を思い出した。思い出したら寝ぼけている暇なんかなくて、がばっ、と体勢を起き上がらせようとして、それを強い力で阻止された。
「あ、の、あとべ、さん」
ベッドの上で、私の体に腕を回して、跡部さんは健やかな寝息を立てていた。馬鹿な、寝ているのにこんなに強い力を出せる筈がない。腕を回して耳を引っ張れば、不機嫌そうに顔を歪ませて目を開けた。
「おはようございます」
「バカ野郎」
「………………」
何かもっと他に、おはようとか、ないのだろうか。小言を言いたいのに、今の私には何も言うことが出来なかった。
あの時、部屋が明るくなったと同じくらいで、私に体重をかけていた先輩の体はどこかへと吹っ飛んでいった。広がった視界で、跡部さんの姿を見た気がするけど、そこからはあまり覚えていない。
「跡部さん」
「何だ」
「あの、なんで、部屋に」
一番の疑問をぶつければ、跡部さんは体を起こした。つられるように私も起き上がってその仕草を追う。跡部さんの手には、ストラップのついた小さな鍵があって、それを見て絶句した。それは私が、植木鉢の下に隠していたスペアキーで、
「え、なに、パクってたんですか」
「盗っちゃいねえよ。テメーの性格を考えれば、どこかに置いていると思っただけだ」
なんてことのないように言った。確かに、うっかりが人より多いから、出先で鍵を失くした時のために、隠していたのである。場所までは分からなくても、私の事を知っていれば隠していること自体は見当がつくし、見当さえつけば隠し場所なんて限られていた。
「なんで、来てくれたんですか」
「偶然だ」
それはいつかもきいた台詞で、でもなんだか納得してしまった。彼には、私の危機を察知するセンサーでもついているのではないか。非現実なことを考えても、夜中の現実が頭を過れば、つい身震いしてしまう。両腕を摩る私がおかしいのか何なのか、跡部さんは再びベッドの上へと戻ってくる。背中から感じる重みと、回された腕が懐かしかった。
「今日は泣かねえのか」
「……泣いて欲しいんですか」
悲しいというより、悔しいに近い。だから別に、今は、泣くほどではなくて。少しだけ跡部さんの方へ体重を任せれば、満足したように笑っていた。
それから暫くそのままで、その後少し他愛もない会話をして、お昼を過ぎてから携帯を確認すれば、先輩から怒涛の謝罪メールが来ていた。別にあんなの、気の迷いだろう。手を出したのが私で良かったですね、と皮肉のような文字を打ってから、少し悩んで全部消した。どう返そうかと更に悩んでいると、携帯はするり、と私の手からなくなった。
「跡部さん、人のものとらないでください」
そう言ってもきいてはくれない。先輩からの長い、とても長いメールにとりあえずは目を通したようで、読み終わってから、舌打ちをした。
「おい、茜」
「…………はい」
どうやら、気分を悪くされたようだ。王様は私に、私の携帯を差し出した。返してくれるのだと手を出せば、そうではないみたいで、画面だけを私に見せていた。
「どういう意味だ」
跡部さんが指差したのは、長文メールの最後、『ていうか、彼氏いたんだね。ウソつかなくて良かったのに。笑』という一文だった。
「ああ、先輩、語尾にワラってつけるのがクセなんですよ。気にしなくて良いですよ。反省してそうですし」
「バーカ、そっちじゃねえよ」
呆れた。と顔に書いてあった。じゃあ何なのだ、とは怖くて聞けない。口を噤んで次の言葉を待っていれば、観念したような、とても長い溜め息の後に言葉をつなげた。
「茜、俺様は彼氏じゃないなら何だ」
「ええ、なんでしょうね……」
それは、私がききたい。先輩に最初に、彼氏はいるのかときかれた時から思っていたことで、答え合わせをしてくれるのであれば、方法は何でも良かった。だからそれを、跡部さんが答えを言ってくれるのではなく、私にきいてくるのはどうにもおかしい。
王様は、今まで見たことのないようなご尊顔でいらっしゃった。口許を押さえて、言わば絶句、という感じで。
「テメーは付き合ってもねえ男を家にあげるのか?」
「ええ、そうですね」
「付き合ってもねえ男とキスするのか?」
「そんな、それは、跡部さんと、だけ、…で、す…………」
語尾は完全に、風の音と同化していた。
私は何か、重大なことをやらかしているのではないだろうか。ぶわ、と顔があつくなって、恐る恐る、王様の様子を伺う。文字通りに頭を抱えていた。
「ね、ねえ、跡部さん」
「……何だ」
「もしかして、『一人になることは許さない』って、そういう」
今世紀最大の発見だった。ファミレスはコスパが良いなんて、本当にどうでもよくなるくらい、衝撃だった。きっと跡部さんも、同じ衝撃を頭に抱えているだろう。
「ちゃんと、ちゃんと言ってもらわないと、分からないですよ!」
「ああそうだ、テメーはそういう奴だ、俺が間違えた」
「そんな、卑屈にならないでください……」
その姿がなんだか、王様らしくない、ただの男の子だった。ふと思い立って、手を頭へとのばし、ゆっくりと撫でる。僅か数秒で、やめろ、と制止された。その顔はもう王様へと戻っていた。
「もう1回だけ言ってやる。好きだ。愛している。結婚しよう」
「……プロポーズじゃないですか、もう」
「当たり前だ。手放す前提のバカがどこにいる」
撫でるのをやめて、ふらふらと宙を彷徨っていた私の手を掴まえて言う。確かにそうだろうけど、彼には少し早い話ではないだろうか。くすりと笑えば、頬を引っ張られた。
王様という概念は、恋人という単語に挿げ替えられた。そしてもう、神様さえ入る隙はなくなってしまった。全人類の王様は、私の手を取ることを選んだ。まるで昔読んだ絵本のようだと思ったけれど、私は、お姫様みたいな謙虚さなんて持ち合わせていない。王様が私を選んだのならば、30年後でも、もうこの手は放せないだろう。
「恋人なら、言ってくれるだろうな」
「何をですか?」
「その敬語もやめろ」
合点がいって、少しだけおかしくて、つい笑ってしまう。今度は頬を引っ張られることはなくて、跡部さんは私と目を合わせて、私の言葉を待っていた。
「よろしくおねがいします。景吾さん」