負け犬根性5割増し



「謙也くん、これありがとう」

ぱっとした明るい声で振り返る。にっこりと微笑んでいたのは、隣のクラスの茜だった。

「もう忘れんなや」
「たまたまだって!」

数学の教科書を忘れたらしく、貸してほしいと頼まれたのだ。午後はウチが数学だから早めにと言伝れば、昼休みのうちにこうして返しに来てくれた。
何が、何がたまたまだ。彼女はよく教科書を忘れる。その度に、クラスの違う俺に貸してと言ってくるのだ。仕方ない風を装ってはいるが、悪い気はしなかった。

一目惚れだった。同じ委員会になったことがきっかけで、とにかく初めて見た時から、茜からは、他の女子とは違う何かを感じた。白石のように、群を抜いてかわいいとか、綺麗なわけではない。だから何に惹かれたのかは分からなかったけど、とにかくそれから夢中になった。
だから頼られるのは、言った通り悪い気がしない。クラスが違うせいで、会話のきっかけが無い俺にとっては、むしろ都合の良いことだった。ただ一つを除いて。

「良かったらお昼も一緒に食べていい?」
「構へんよ。な、白石」

隣の机に我が物顔で座り、既に弁当を広げている白石に問いかける。大歓迎や、と言いながら、白石の手の中から出てきたのはチョコレートだった。

「日向さんにあげる」
「良いの? ありがとう!」
「俺のは?」
「あるわけないやん」

だいたい、いつもの流れだった。
茜が俺から教科書を借りるのも、そのついでや気まぐれでお昼を一緒に食べるのも、これが原因だった。この一つがどうしても、都合の悪いことだった。

茜は白石のことが好きだ。本人から直接聞けることではないから憶測だけど、俺の目に狂いはない、と断言したい。今までだってそうだった。俺に気を遣ったり、何かを頼んだり、仲良くする女子はみんな、白石を狙っている。俺と白石の仲は周知の事実で(俺も親友だと思っている)、情報を集めるために言い寄られたり、謙也に優しくしないと白石とは仲良くできないという噂まで耳にしたほどだ。茜も例外なくそれだった。

だから俺は、茜に夢中になることをやめた。茜のことは好きだ。けれど、白石のことも好きだ。俺の気持ちのせいで2人を傷つけることは、この恋心を捨て去ることよりずっと耐え難かった。
茜とは恋人じゃなくても、友達でいればそれでいい。だからいつものように軽口を叩いた。そして、今みたいに、隙があれば白石と時間を共有する。そうすることで、茜の願いが叶うのであれば、それが自分の使命だと思った。

つまり俺は今、恋のキューピットを目指している。まあ、いつものことやけど。

「…………や、ケンヤ〜」
「なんや」
「なんやじゃないよ。話聞いてなかったでしょ」

どうやらずっと呼ばれていたらしい。軽く謝って食事を再会すれば、茜と白石は俺を置いて話し始めた。
今日の授業の話とか、この前教えて貰った健康法だとか。味のしない白米を詰め込みながら、2人の話に耳を傾けた。


・・・


「何通でしょーか」
「3」
「よっつ」

放課後になれば、俺が白石の隣の席に移動した。朝から昼休み、放課後のこの直前まで。俺宛てに白石へのラブレターを渡してくる女子は少なくない。貰ってすぐ渡すと手間がかかるから、こうやって纏めて渡すことが恒例行事となっていた。

「あー、アカン。これ朝貰ったやろ? 昼休みに屋上やって」
「知らんがな」
「『なんで白石クンに渡してくれへんかったの〜?』て詰め寄られるの自分やんけ」

わざとらしい裏声で、少しだけ笑ってしまう。白石は律儀だ。呼び出されたら、必ず向かう。100パーセント断ると決めているのに、会わないのは相手の子に申し訳ないからと言うのだ。だから貰った手紙も全て目を通す。糊付けされたそれを、ハサミで丁寧に開けている様子を、呆然と眺めた。中身を出そうとして、白石はぴたりと動きを止めた。その様子がおかしくて、何や、と声をかければ、白石は深いため息を吐いた。

「これ自分宛てやで」
「はあ? 何の話…」

言葉は白石から差し出された手紙に遮られた。その封筒には確かに『忍足くんへ』と書かれており、伝染したように俺が深いため息を吐いた。

「何で気づかへんの」
「なんでやろなあ」

わざとらしく言って、封筒を受け取った。
俺に渡される手紙なんて、全部白石宛てに決まっとるやん。そう言おうとした言葉を飲み込んで正解だった。言ってしまえば、惨め極まりない。手紙に書かれていた言葉はどうにも頭に入ってこなくて、読むのをやめた。


・・・


「今度の日曜日、空いてる?」

どくり、と心臓が動いた。

「え、なな、な、なんて?」
「だから、今度の日曜空いてるかって、」

聞き返せば、不機嫌そうな声でリピートされた。
まるで恋愛ゲームのようなお誘いを受けて、平生でいられるわけがない。その様子を、言い出した張本人の茜は、首を傾げて眺めていた。

「空いとるけど、何や、藪から棒に」
「インドアしすぎって親に怒られて、お小遣いあげるから出かけてこいって。どうせならめちゃくちゃ高いとこ行ってやろうと思ったんだけど、ぼっち遊園地ってハードル高いでしょ?」
「遊園地なんて言うほど高くないやろ。ユーエスなんとかでも行く気か」
「その手があった! 流石謙也くん!」

よく分からないところで褒められた。茜は一人でテンションを上げ、アトラクションを調べ始める。

「あ、これ乗りたい」
「乗れば良えやん」

適当に返事をすれば、さっきまでのニコニコ顔は形を潜めた。眉間に皺を寄せて俺を睨んでいる。可愛い顔が台無しだ。いや、これはこれで可愛いけど。

「話きいてた?」
「それやけど、誰の、何が、何やって?」
「謙也くんの、日曜日が、暇かってきいたの!」

同じことを3回も言わされれば、誰だって拗ねるだろう。不機嫌を隠さずに彼女は叫んだ。そして一瞬だけ教室の注目を集めてしまい、恥ずかしそうに顔を覆っていた。

「……空いとるけど」
「じゃあ決まり。現地集合、カイトツだからね」
「おん。白石にはもう声かけたん?」

消しゴムをいじりながらそう言えば、まるで時間が止まったようだった。目をぱちぱちと瞬かせて、それ以外は動かない。思考停止のようだ。もしかして、バレていないとでも思っていたのか。

「え、まだ、だけど……」
「俺から誘っといてやるわ」
「うん、ありがとう」

ありがとう、と、言い逃げだった。何か声をかける前に、彼女はぱたぱたと自分の教室へと戻っていった。

きっと白石を誘おうとして、恥ずかしくて俺をダシに使ったのだ。なんぼでも使え。そういう役になろうと自分で思っているのだから。
となればそろそろ、2人には一歩を踏み出してもらわないと。どう動こうかと考えていれば、約束の日なんて待たずにやってくるのだった。


・・・


「スミマセン、寝坊したので遅れます」

本当は3時間前には起きていたのだけど。準備もバッチリ済ませてから、少し遅れて電話を入れる。『謙也が寝坊なんて珍しいなあ。雨降るんとちゃう?』と、呆れた声が返ってきた。

「2人で先行っとってや」
『別に急いでへんし、外で待っとくわ。せやから早よ来い、ドアホ』
「おん。走っていくわ」
『電車より早く走れるなら走りでええよ』

ぶっつりと切られる前に、ため息が聞こえた気がする。2人の時間を増やしてやったというのに。白石はこういう物分りだけは悪かった。

約束の1時間後、電車から降りて少し歩けば、2人が手を振っているのが見えた。慌てて駆け寄ればまず、白石の手のひらが頭に降ってくる。

「アホ。待たせすぎや」
「謙也くん遅すぎ」
「スマンスマン。まあええやん、早う行こか」

ニコニコと笑みを貼り付けて、ゲートを潜った。


2人は俺が、待つのが大変苦手であることを重々承知していらっしゃった。頭が上がらない。ざっと人の数を見て待ち時間を確認し、すぐに乗れるものから回っていく。白石の無駄のないプランのおかけで、どのアトラクションもすんなりと回れた。

「2人とも、体力ありすぎない?」

そう言ったのは、俺たちの少し後ろを歩く茜だった。確かに部活で鍛えている男2人と、どちらかと言えば文化系の彼女だ。少し自分たちのペースで行き過ぎたと反省する。

「少し休憩するか?」
「うん」

近くで見つけたベンチに座り込む。茜は持参していたミネラルウォーターを、一気に喉に流し込んだ。

「あー、なくなっちゃった」
「今日暑いからなあ。新しいの買ってくるわ」
「良いよ、自分で…」
「まあまあええから。謙也は? なんか飲む?」

と話を振られて、慌てて立ち上がる。

「俺が買ってくる」
「はあ? 今めっちゃ俺が買う流れだったやん」
「俺が買いに行った方が早いっちゅー話や!」

と、言いながら既に走り出せば、白石も止めることはできないだろう。
できるだけ2人の時間を。それは俺が、切に願うことだった。


俺の苦労はトイレットペーパー以下だ。水に流すとかそんな話じゃなかった。
彼氏がアイスを買ってる間に彼女がナンパされたり、突然2人きりにされて告白する雰囲気になるのはお約束だ。ベターではあるけど、それを期待して戻れば、ベンチには白石1人だけが座っていて、思わず買ったばかりの水を落としてしまうところだった。

「茜は?」
「お花摘み」
「今どきそんな言い回し誰もせんわ」

仕方なく、少しだけ距離を空けて座る。謎の沈黙に耐えきれなくて、白石のぶんとして適当に買った缶ジュースを、

「俺、日向さんのこと好き」

渡そうとして、地面に叩きつけるところだった。

「そ、そうか」
「告白しよう思うんやけど、どうやろか」

せやから! さっき2人きりにしたやん! なんて、今声を上げても仕方がない。伏せられて汲み取れない表情を詮索するのは諦めて、嫌という程に青い空を見上げた。

「大丈夫やろ。茜も白石のこと好きやで」
「……ホンマに?」
「おん」

自分で言って、心臓が苦しくなった。

「自分も好きなクセに。謙也は嘘つきやな」

そして苦しい心臓に、間髪入れずにナイフを刺された。え、今なんて? せやから、自分も好きなクセに。うそつき。白石からの言葉は、何度も脳内で勝手に再生された。

「誰が嘘つきや。俺の気持ちやなくて、茜の気持ちやろ」
「せやな。今俺が告白したら、謙也はチャンスなくなってまうなあ」
「何が言いたいん?」
「先にチャンスやるわ」

挑発だった。それを理解できないほど子どもではなかった。けれど、白石がそんなことをする人だとは思っていなくて、少しだけ、驚いてしまったのだ。

「謙也がフラれてからでも遅ないっちゅー話。日向さんも俺のこと好きなら、めちゃくちゃ自信あんねん。せやから先行譲るわ」

意地悪だ。そんな言われ方をして、ムカつかない男がどこにいる。

いつだってそうだった。俺は何をどうやっても、このことに関しては、絶対に白石に勝てない。俺が好きな子はみんな白石が好きだったし、こうやって真面目にぶつかれば、負けるのは目に見えていた。だからぶつからなかった。2人の幸せを願うことで消化した。俺は負けるのではなく、負けを選んでいた。結果が分かっていたから。

「茜も、友達に告られたら嫌やろ」
「そうやって逃げるんや。負け犬」

ああ確かに。的を射た。俺は負け犬だ。負け犬の根性がこびりついていた。でもだったらなんだというのか。

「犬なら犬らしく噛み付いたらどや。つまらんやっちゃな」

白石は大きくため息を吐いて、空になった缶をゴミ箱へ捨てた。

俺は負け犬だ。白石と同じ人を好きになれば、絶対に勝てないことを知っている。だからこんなことを言われても、行動する気は起きなくて。けれど、こんなに分かりやすい喧嘩を買わないことは、恋愛じゃなくて、人生における負けだと思った。

「……先行譲ったの、後悔しなや」
「せえへんよ。絶対に」


不敵に笑った白石から目を逸らし、勢いよく立ち上がった。

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