お別れの日、始まりの日

「本当に、もう絶対にしませんから、許してください日向様」

脳に染み付いた方言をとっぱらって、土下座をする彼の横を素通りした。

「うーわこわ、日向のやつガチギレやんけ」
「うーわこわ、一体何したんや」

外野のうるさい声は、バタン、と勢いよくドアを閉めてかき消した。



白石くんはモテる。それはもう、モテる。それを本人は快く思っていないのだけど。そのせいでてっきり、女性が苦手なのかと思っていた。
だから、好きだと言われて、お付き合いを始めることになったのは私が一番驚いた。白石くんのことを特に好きという訳ではなかったけど、ただ格好いいのは本当だから、彼の彼女になったら、なんて妄想をしたことはある。それが現実になってしまって、正直困惑していた。白石くんのことを好きな人はもっと、ずっとたくさんいるだろう。ただ、白石くんが私を選んだから、こんな中途半端な気持ちを抱えたまま、隣にいるのだ。

「白石先輩、ずっと、前から……えっと、す、好きでした!!」

腰を90度に曲げ、彼へのいっぱいの気持ちを詰め込んだ手紙を渡す後輩を見かけたのは、つい昨日の事だ。教室のゴミを捨てに来ただけなのだけど、あまりに間が悪すぎて、つい校舎の影で耳を立ててしまった。

「すまんなあ。気持ちは嬉しいけど、俺彼女おるねん。堪忍な」

常套句とでも言わんばかりの慣れた口調だった。きっと告白され慣れているのだ。白石くんが初めてだった私とは、対称的だった。

「知ってます。それでも好きなんです、お願いします」
「……困ったなあ」

別れる気ないんやけど。白石くんは頭を掻きながらぽつりと呟く。多分これは、優越感だった。けれどそれも一瞬のことで、後輩の女の子はそれでも引き下がらない。白石くんには私しかいないの、ばーか、なんて、心の中でしか言わないけど。

「わかりました」

白石くんは、引き下がったことへの安堵か、ふ、と短い息を吐いた。けれどそんなことではないと、彼女の表情を見ればすぐに分かる。

「先輩があの人と別れないなら、先輩の彼女に酷いことします」

泣いてもおらず笑ってもおらず、ただ真剣な眼差しでそう言った。これは所謂賭けなのだと思った。恐らく本気ではない、これで白石くんが、私を案じればおんのじくらいの、勝率のない賭けだった。
けれど確率は0パーセントじゃない。だからこの賭けが無意味かと言われたら、全くそんなことはなくて、案の定白石くんは困ったように瞳を泳がせた。

「先輩。キスしてください」
「はあ……?」
「キスしてくれたら、先輩の彼女に酷いことはしませんし、暫くは告白もやめます」

白石くんは、優しい。それはただの長所でしかなくて、そんなこと、誰だって知っていた。そんな言い方をすれば、白石くんが次に何をするかなんて、誰だって分かるだろう。
だから別に、私も、何も言う気はなかったし、怒ろうとも思わなかった。

脅しへの屈服にしては、妙に長いキスだった。
私は別に、白石くんのことを好きじゃなくて。だから、キスしたいって言った彼の口に、ペットボトルを詰め込んでやったのだ。それはつい3日前の話。だから怒りも悲しみも感じるはずがない。そう思った私の中にふつふつと湧いたのは、今まで感じたことのない感情で、私は私の思考を理解する前に、足音も隠さずにずかずかと2人に近づいた。

「ねえ」
「え、あ、日向?! いつから……」
「そんなにキスしたいなら、その子と付き合えばいいじゃない」

手に持ったゴミ袋を、白石くんの顔面に投げやった。



心臓に杭が突き刺さった。いや、実際には刺さってないけど。それくらいの衝撃が私を襲った。
気分が晴れない。あれからすぐ家に帰って、自分の部屋に引きこもった。親がばんごはん、と呼ぶ声すら、イヤホンからの大音量のBGMでシャットアウトした。携帯が着信で震えて、「白石くん」と表示された画面を見て放り投げる。それを5回繰り返して、ついに面倒くさくなって電源を切った。

「はぁ…………」

私は何に、怒っているんだろう。


・・・


そんなこんなで白石くんからのコンタクトを徹底無視した次の日、学校で捕まってしまい土下座をされた。それでもこの杭が抜かれることはなくて。さらに次の日は面倒事が嫌になりすぎて、徹底的に、白石くんの姿を見ないように努めた。クラスが違くて良かったなんて初めての感情だ。昼休みはトイレにこもる。完璧。放課後の新聞部の活動はサボってまっすぐ家に帰る。完璧。と自画自賛して教室を出た瞬間、歩く方向の真逆から腕を引っ張られた。

「日向、」

困ったように顔を歪ませた白石くんだった。なんて酷い顔なんだ。いや、たぶん、私も負けてないくらい嫌そうな顔をしている自覚があった。

「すまんかった、ホンマに謝るから」
「良いよ謝らなくて」

言葉で突っぱねれば、私の腕を掴む手に力がこもった。まるで許してくれるまで離さないとでも言うように。それじゃ、ずるいじゃない。

「……先輩ら、何してるんスか」
「新手の夫婦漫才か?」

別の場所から聞こえた声は、財前くんと謙也だった。

「なんで財前が3年の教室来とんねん」
「日向先輩に辞書借りたから、返しに来ただけやけど」

ありがとう財前くんと、財前くんに辞書を貸した私。ありがとう、とにっこり微笑んで、白石くんが離してくれた腕を伸ばして辞書を受け取り、そのまま全速力で廊下を走った。

「アカン、謙也捕まえて」
「お、おう……? ようわからんけど任せとき!」

バカ! 卑怯! ズル!! 軽口は心の中でしか叩けなかった。心臓に杭を打ち込んだまま、逃げるのはかなりハードだ。もう耐えられない。捕まりたくない。白石くんと話したくない。放っておいて! どれも言葉にしないまま、角を曲がって、階段を勢いよく飛んだ。

「あ、」

多分、勢いが、良すぎた。


・・・


「謙也にありがとうは?」
「……ありがとうございました」

先生が不在の保健室を無理やり開けてもらい、真っ白いベッドに座らされた。
そもそもアンタが謙也をけしかけなきゃこうなってないのよ。頭の中では3万回言えたのに、実際に口に出すことは出来なかった。
勢い余った私を、空中でキャッチして無事着地した謙也のお陰で、大きい怪我はなかった。幸い謙也も無傷だということで、胸を撫で下ろす。こんなしょうもないことでスポーツマンに怪我をさせたとなれば、一生謝罪ものだ。それにしても、そんな運動神経どこから出てくるのか。あまりに不思議だった。

「ほな俺ら部活行くから、また後でな」
「私も帰る。さよなら」
「日向はアカン」

ぐ、と腕を掴まれれば逃げ場なんてなかった。完全に逃げるチャンスをなくしてしまって、ただ視線を合わせないように、明後日の方向を向くことしか出来なかった。

「ホンマに怪我してへんの、痛いとこあったら言うてや」
「ほんとに、ないから」
「それなら良えけど」

白石くんが、言葉を選んでいるのがひしひしと伝わってきた。気まずくて、どうにかなりそうで、今すぐ逃げ出したいのに、彼は私の腕を掴んだまま、離さなかった。

「日向、俺のこと好きやないやろ」
「え、」

言葉を選ぶことをやめたような、吐き捨てたような、独り言のような声だった。
出来るだけ、そう思われないように、好きなフリをしていたのに。いや、楽しい時は楽しかったとかは事実だから、嘘を吐いたりしたわけじゃないけど。それでもきっと、態度に出ていたのだろう。

「俺が告白したから、付き合うてくれただけやんな」
「それは、」
「良えんよ。俺もそれで良えって、それでも良えって思っとったから。せやけど、それで自分傷つけたら意味無いねん」

白石くんは白いシーツの上で、膝に顔を埋めた。

「日向のこと傷つけたくなかったんや。なのに、そう思ってやったことで傷つけたんや。意味無いやろ、アホみたい」

あの時、白石くんが何を考えて、あんなことをしたかなんて、私だって分かっていた。だからそんなことに、怒っている訳じゃなくて、傷ついた訳でもなくて。その筈だから、私が今何を許せないのか、私が分からないだけなのだ。謝って欲しいわけじゃなくて、ただ、私は…………何をして欲しいんだろう?

「あれからずっと考えとってん。俺やっぱり、日向の隣におるべきやない」

す、と。痛いくらいに腕を掴んでいた白石くんの手のひらは離れていった。力なく垂れたそれを、ぎゅ、と握りしめれば、白石くんは驚いたのか顔を上げて、目を見開いて私を見た。
杭の抜き方がわからなかった。ただそれだけだった。

「ねえ、白石くん」

私は白石くんのことを好きじゃなくて、白石くんが私のことを好きだから、付き合っているんだ。
気づいてしまえば答えは簡単だった。そうじゃなかったんだ。それさえ分かれば、胸の痛みも、何に怒っているのかも、答えは間違えようが無かった。

「別れよう」

繋いだ手に力を込める。顔を見ることは出来なかったけど、彼のことだ。無理やり笑っているに違いない。

「…………せやな。」

きっと彼も、同じことを、言おうとしていたから。これが2人にとっての正解だった。繋がれた部分は、私の手にしか力がこもっていなくて。何だか無性に、はあ、やっぱり。ダメだ。

「白石くん」

彼の手のひらではなく、両肩を掴む。正面から向き合えば、涙を堪えたような瞳に、かっちりと視界が嵌った。

「私、白石くんのこと好き」

答えは単純すぎて、呆れてしまった。
最初から間違いだったんだ。どうしようもなく彼が好きで、好きじゃないなんて言い訳だった。好きだと分かってしまえば、刺さった杭が理屈じゃなことくらいすぐに分かった。とどのつまり、ただの嫉妬だった。

「白石くんのこと、好きなの。私と、その……お付き合い、してくれませんか?」

そこまで言い切って、力なく腕が垂れた。顔を合わせるのが恥ずかしくて、俯く。途端に聞こえてきたのは、笑い声だった。

「な、なにわろてんねん……?」
「カタコトで言うなや」
「笑わないでよ、私、真面目に」

話してるの、と続ける前に、どさり、と重いものが降ってきた。

「よろしくお願いします」
「ちょっと、重い」

抱きつかれたまま、勢いあまってベッドへ倒れた。背中は痛くなかったが、体重をほぼ乗せられてしまい、身動きが取れない。

暫くそのままで、どのくらい経っただろう。今まで感じていた重みが消える。シーツに手をついて起き上がろうとする白石くんの背中に腕を回して、引き寄せた。

「こういうの、嫌いやろ、今起き上がったが良えかなって、考えとったんやけど」
「バカ、うるさい」

やっぱり恥ずかしくて、軽口しか叩けないのだけど。
ただふと、離れていく白石くんを、遠いと思ってしまった。だからこうしてゼロ距離に縫い止めたのだ。心臓の音が聞こえる。落ち着けようとする呼吸だって聞こえる。それなのに、やっぱりなんだか、まだ遠い。こんなに近くにいるのにまだ遠かった。
ああ、やっと分かった。今まで意味が分からなくて嫌で仕方なかったけど。多分これが、

「ねえ、白石くん」


キス、したい。





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