洗濯物
つまりは、恋をした。
電車のドアが閉まり、ゆっくりと進み出す。つう、と鼻水が出てきたので、それを手の甲で拭えば赤い線ができた。あ、これ、水じゃなくて血だ。ポケットに手を入れてティッシュを探すが、あんなに貰っていた街頭配りのティッシュは1つも入ってなくて。嘘でしょ、と自分に突っ込んだ。そしてこういう時に限って、ハンカチもないのである。昨日はどっちもあったのに、タイミングが悪い方向へ重なる事は、妙に多い気がする。
周りにバレないように片方の手で覆って、もう片方で鼻をつまんで止血を始めた。それでも止まる気配はなくて、次の駅まで何分だろう。どうにかしなきゃ。でも1回降りたら学校に間に合わない。どうどうと考えが絡まって、
「大丈夫ですか?」
隣から、声がした。視線だけを向けると、中学生くらいの男の子が、私に向かってハンカチを差し出してきた。
「使ってください」
全く動こうとしない私に、遠慮していると思ったのか、もう一度。それに対して、ありがとう、と上手く言えたかよく分からない。男の子からハンカチを受け取って鼻にあてると、それは瞬く間に赤色になっていった。
次の駅に着くまでじっとして、そして、恐る恐るハンカチを離す。どうやら血は止まったみたいで、ほっと一息ついた。
「ハンカチ、汚しちゃってごめんなさい。洗って返すので……」
せめて学校とか、と続けようとして止まってしまった。男の子は既に電車を降りていて、空いた席にスライドで座っていたおばさんに変な顔をされたからだ。真っ赤になったハンカチを隠しながら、穴があったら入りたい気分だった。
次の日、何度も何度も洗濯してきれいになったそれを握りしめて、私は同じ時間の同じ電車へと乗った。なんとなくホームを見渡したり、乗客を確認するが、同じ男の子を見つけられなくて断念するのである。
それでも、諦められなかった。ハンカチなんて、まあ、どうせ100円あれば代わりがきくものだ。借りたままになってしまい、なんだか心苦しい気持ちもあるが、そんなことより、もう一度彼に会いたいと思っている自分に気づいてしまった。それはなんだか、何かが、かっちりと嵌ったような感じで。ああ、ハンカチは只の言い訳で、本当は私、恋したんだなと思った。我ながら単純すぎて笑ってしまう。でもしかたがない。好きなものは好きなのだ。
だから次の日も、同じ時間の電車に乗った。やっぱり会わない。その確率の方が高いから仕方がないけど、これ以外に彼との接点がないから、それこそ仕方の無いことだった。
だけどきっと、キューピットとか、神様とかって、いるんだと思う。
「552円になります」
雑誌とお茶のバーコードをスキャンし、顔を上げて、思わず変な声を出してしまうところだった。
あの人だった。この前はジャージだったけど、今日は制服だった。この制服は多分、氷帝だったかな。とか、そんなことを考える前に声をかけろ、ハンカチを返せ、と頭の中の私が怒り出し、そんな、突然言われても覚えてないかもしれないよ、しかもバイト中だよ、と頭の中の私が宥め始めた。
だから結局、平常心を保つ為に、お釣りを見もせず募金箱へと入れた彼に、ありがとうございました、と言うしか無かったのである。
例えばいつも使う駅の駅員さんとか、いつも寄るコンビニの店員さんとか、いつもガソリンを入れてくれるスタッフさんとか、一体誰が、顔や名前を覚えてくれるだろうか。
「アンタ、誰だ」
だからあんまりショックではなかったし、私は平常心を保った筈だ。筈だったのだけど。
気がつけば走っていた。氷帝学園から少し離れて、生徒もまばらになったところで、立ち止まる。盛大に溜息を吐いた。
何故、なぜなぜ。ハンカチを返さなかった。バカ。アホ。いみわかんない!
返せば思い出したかもしれないし、そもそも返すことが1番の目的なのだ。私のことを知らなくてもそれはしなければいけないことなのだ。例えこの気持ちに名前があっても、それは私が間違えちゃいけないことで。きっと舞い上がっていた。偶然とはいえ2回も会ったことに。あ、今日の店員あの鼻血野郎だ、くらいは認識されていると、都合のいい妄想をしてから寝たのがダメだった。
「はぁ〜〜…………………………」
彼とこうやって会うことは、4度目は絶対にないだろう。ハンカチを手元に広げれば、ぽたぽたと水滴が垂れた。雨かと思ったが、どうやら私が泣いているらしい。
ああ、また洗濯しなきゃ。