赤の他人

一日一善。とてもいい言葉だ。
杖を使ってフラフラと歩く年配の女性へ席を譲った事が始まりだ。次の日は道に迷った観光客を案内し、その次の日は電車で突然鼻血を出した隣の人へハンカチをあげ、更にその次の日は発狂して自殺しようとしているおじさんに喝を入れて号泣させた。
今日の一善は何にしよう。何もなければ募金箱に1円でも入れればいいのだが、それは本当の本当に最後の手段だ。

朝から少しだけ稽古をして、登校し、授業を終え、部活をする。家に帰りながらもさして一善を出来るタイミングがなかった。いや、一善もしないなんて、ありえなくて、振り返ってみれば1つくらいはしていそうなものだが、先日の自殺おじさん事件が衝撃的すぎて何もかもが霞んでしまった。
つまり、やっぱり最後の手段だ。帰り道のコンビニに入り、ただ何も買うものがないので、適当に雑誌と飲み物を掴んでレジへと持っていく。もらったお釣りを丸ごと募金箱へと入れた。ありがとうございます、という店員の声を聞きながら、コンビニをあとにした。


今日は朝から、万札しか持っていなくてバスを降りられない女性がいた。どうぞ、と小銭を貸せば、大した額ではないのに、絶対に返しますと言ってコンビニへ買い物をしに行った。
ありがとうございましたと、ぴったり返されたはいいのだが、その時間のお陰で朝練に少しだけ遅刻してしまった。本末転倒と呼ぶべきだろうか。それでも、今日まで積み重ねた善の方が遥かに大きい。やっぱり、一日一善は素晴らしい。

「一日一善を心がけているんです」
「へぇ、例えば?」

部活が終わり、向日先輩はダブルスの事で色々話したいと声をかけてきた。部誌を書くのでその後でもいいですか、と断ればすぐに頷く。先週までは特になしですぐに終わったのだが、特になしはやめろという話になって、語彙をひねり出して真面目に書かなければいけないのである。いつもより時間のかかる作業に、つい、雑談を始めた。

「そうですね。まあ、お年寄りに手を貸したり、バスで小銭がない女性にお金を貸したり……あとは、自殺しようとしたおじさんを叱ったり」
「最後だけ次元がちげえよ」
「俺も思います」

部誌を書き終えれば、どっかで食いながらやろうかと誘ってきた。いえいえ、時間も遅いのでお断りします。じゃあ帰りながら話すか、と2人で揃って部室を出た。


「なあ日吉」
「なんですか」

テニスの話をしていたのに、向日先輩は何故か、ぶっつりと会話を切って話しかけてきた。不審に思って視線をやれば、何やら校門の方を指さして眉間に皺をつくっていた。

「アイツ、知り合いか?」

そう言われてそちらへ視界を移動させれば、校門の外でうろうろしている女の子がいた。見た事のない制服を着ていて、多分高校生くらいだろう。ふと、目が合った気がして、彼女の顔も綻んだ気がした。

「お前のこと見てるって、いってやれよ」
「はぁ」

面倒くさい。とは声に出さず、すたすたと歩く。やっぱり彼女の視線は俺に刺さっていて、不思議な感じがした。

その距離を1メートル程まで詰めれば、そっと、おそるおそる、と言うように口を開いた。

「あの、私のこと、覚えてますか」

と、言われても、記憶になかった。
幼稚舎にもこんな顔いなかった気がするし、習い事で同じだった女の子にも、こんな人はいない。10秒ほど考えて出た言葉は、

「知らないな。アンタ、誰だ」

それだけだった。それを言ってすぐに後悔した。言葉を取り消したくなった。彼女の明るかった表情は、分かりやすく曇った。それを見せつけられれば無性に苦しくて、知らないものは知らないが、ああもっと言葉を選べば良かったと、少しだけ後悔したのである。

「だ、よね。ごめんなさい、突然……」

無理やり作った笑みだった。そうして、ごめんなさい。と言って、走って帰っていった。

何だったのだろう。何か引っかかるような気がして、そのことに気を取られていた。向日先輩に声を掛けられていることに気づかなくて、肩を掴まれてようやく振り返った。

「知り合い?」
「いえ、全然知らない人でした」
「日吉のファンとか」
「跡部部長じゃないんですから」

もう考えてもどうしようもない。早く帰りましょう、と急かして歩き始めれば、何か砂でないものを踏んだ感覚がした。
足を退けると、すかさず向日先輩がそれを拾う。

「生徒手帳じゃん。1年B組、日向茜……? って、高校生じゃん。氷帝でもねえし」

なんとなく驚いた。名前を聞けば、あぁ、あいつかとなりそうなのに。俺の記憶をどれだけ辿っても、いまいちピンとこなかった。

「この学校に連絡するか? あまり遠いとこじゃなさそうだし」
「いえ、俺が預かります。俺のファンならまた来るでしょう。その時に返しますよ」
「…………もしかして惚れたか?」
「違いますよ」

返すだけなら、たしかに、学校に届ければそれだけで良かったのだけど。
俺は多分、口実が欲しかったんだと思う。




prev back next