2000万円の男
「アーン? 適当に対応しておけ。俺は忙しい」
「それが直接、景吾様にお会いしたいと……」
数分の押し問答の末、この数分で顔くらい見られたことに気付いて、その後の数分を無駄にしないために渋々了承した。
客人は応接間に通され、椅子にちょこんと座って、行儀よく待っていた。
女性だった。当たり障りなく染めた濃い茶髪を揺らして、俺と目を合わせる。
「お待たせしました」
アポイントメントのない、見ず知らずの客と話す道理などないのだが、ここまできて塩のような対応をする程子どもではない。そう、もう子どもではないのだ。斜め前の椅子へと腰掛けると同時に、使用人が紅茶を出す。どうぞ、と進めれば、その女性は角砂糖を3つ入れて、ぐるぐるとかき混ぜた。
「折角ご足労頂いたところ恐縮ですが、この後用事があるんです。出来れば手短にお願いしたいのですが」
勿論用事などないのだが、アポイントメントのない、以下略。跡部財閥の御曹司、と呼ばれるような歳は過ぎ去ろうとしている。多忙な生活を送っている為、できるだけ無駄な時間はつくりたくなかった。
「分かりました」
女性は足許から取ったそれを、机の上に置いた。真っ黒いボストンバッグだった。置いた時の音から、かなり中身が重いことが窺える。
「これを届けに来ただけなんです。直接お渡ししたくて、すみません、ご迷惑お掛けしました」
砂糖を混ぜ込んだ紅茶に口をつけることなく、彼女は立ち上がって部屋を出た。
1人になった部屋が、いつもより妙に広く感じた。
これは一体何だったのだろう。彼女は一体何者なのだろう。名前も聞いていなければ、この荷物の中身だって検討がつかない。
黒い、大きめの鞄、なんて、考えられる中身は1つか2つだ。もしこれがテロの類であれば、それはまずいなと、誰にも聞こえない笑い声を漏らした。とにかく開けなければ話は始まらない。開けて爆発なんてことになれば、それはそれで面白い。この震えは武者震いだと言い聞かせて、バッグを開けた。
「な、んだ……これ」
なんだこれは。
・・・
親が死んだ。
2000万の借金を私に押し付けて死んだ。
父は事業を展開しようとして失敗し、
母は黒いスーツの男に騙された。
13歳の頃の話だ。
近くに身寄りもなく、1人で生きていくことを強いられ、私はついに追い詰められた。
お父さん、お母さん、会いにいくね。そう壁に書いて、その後突きつけたカッターは、ついに私の血管へたどり着くことは出来なかった。情けなくできた、うっすらとした赤い線を指でなぞって泣いた。
次の日私は、退学届だけを持って学校へ行った。そしてその退学届は、私の目の前で無残にも破りさられ、ゴミ箱のゴミの一部になった。
「却下だ」
「お金がないんです」
「さっきも聞いた」
生徒会長の跡部景吾という人は、お金持ちだった。入学するなりこの氷帝学園にかなりの額を投資したと聞く。私は、彼が既に改造、いや、革命してしまった学園に1年遅れで入学したから、よく知らないのだけど。
「日向、お前の親が何でお前をここに入学させたか知ってるか?」
「私が行きたいって我儘を言ったからです」
「それは違う」
なんで、なんで私より貴方の方が私の親のこと知ってるの。怒る気力さえあれば胸ぐらを掴んでしまうくらい、その質問は私の心を抉った。そんな私とは裏腹に、跡部さんは穏やかな表情を浮かべている。
「事業を成功させて、継がせようと思ったんだろうな。立派な経営者にする為だと」
「そう、言っていたんですか?」
「ああ。」
その目は嘘偽りなんかじゃなかった。なにかの機会に父と話して、なにかの機会にきいたのだろう。
「ここは遺志を尊重しないか?」
「どういう意味ですか」
「学べ。学び続けろ。立派な経営者になる為にな。それまでにかかる金は全部俺様が立て替えてやる。なに、あげるわけじゃねえ。立派な経営者になって、稼いだ金できちんと返せ」
ただこれが、彼が退学届を破り捨てた理由だろう。納得できるようで、納得出来なかった。私なんかの為にそこまでする義理は、彼にはないのだから。
跡部さんはずっと座っていた椅子から身体を離し、ただ棒立ちになっていた私の方へと近づいてきた。手を伸ばして、触れてきたのは、私が昨日ヤケになってつけた前足の傷で、
「だからこんな、馬鹿なことするんじゃねえ」
思いつめたような口調で吐かれた言葉に、涙が耐えられなくなった。
・・・
『ありがとうございました。お借りした1000万円と代わりに返済して頂いた2000万円です。 日向』
そう書かれた紙が1枚。人の顔が印刷されたそれが………………たくさん。ざっと数えて5000万円の入ったそれを見て、頭を抱えた。
日向、という名前を見て、引き出しの奥の奥の奥に入りこんでいた記憶は一気に呼び覚まされた。
そうだ、そんなこともあった。あんなに偉そうことを言ってしまったが、彼女の親と話したことなんてないし、本当に返してくるなんて思っていなかった。ただ、目の前で三途の川へ片足を突っ込もうとしていた人間を放っておけなかったし、お金が無いからと人生の選択を諦めてしまう人がこの世にいることが許せなかった。
それに何より、2000万円も計算を間違われてしまった。今彼女が何をして、このお金を用意したか分からないし、もしかしたらこの額は今の彼女からすれば端金なのかもしれない。それでも、貰うわけにはいかない。外出用の服を急いで引っ掛け、外へと飛び出した。
「日向!」
人通りのある道路まで出る。人混みの中で、たどり着く前にタクシーに乗り込みそうな彼女を見つけて、叫んだ。日向はこちらを見て一瞬だけ驚いたような顔をして、そしてすぐタクシーの方へと向く。運転手と何言か話して、歩道へと下がった。タクシーは別の客を乗せて出発した。
「…………思い出しましたか?」
「忘れる訳ねぇだろ」
「嘘。名前見るまで、忘れてましたよね?」
図星を突かれ、狼狽えてしまう。この数年の間に読心術でも学んだのだろうか。それとも、あのバッグの中に盗聴器があったりして、と考えて、その思考を振り払うように首を振った。
「忘れてもらって、良かったんです。でも欲が出ました。直接渡したら、思い出して貰えるかなって」
「欲じゃねえ。忘れてた俺が悪い」
「あ、本当に忘れてたんですね」
どうやら引っ掛けたらしい。なんてやつだ。中学の頃は、こんなに人をからかう性格ではなかったと思う。退学届の件があった次の日から、のめり込むように学業に没頭した姿を思い出して、どこで間違えたのだろうと考えた。答えは見つからないが、まあでも、これはこれで可愛らしいと思う。
「なつかしい話なら、私はあまりできないので。用件がないなら失礼しますね。お忙しいでしょうし」
さっき、用事があると言ったことを気にしているのだろう。と思ったが、彼女はこうして話している間に何度も、時計に目をやった。恐らく急いでいるのはあちらだろう。それなら、あまり足を止めさせるのも悪い気がした。
単刀直入に切り出す為に、一緒に抱えてきた鞄を差し出した。
「2000万、多かったぞ」
お礼ですと言われても受け取らない。利子なんて言われても受け取らない。そういう人だと知っているだろうから、余計なことは言わなかったのに、日向は首を横に振った。
「5000万円で合ってます」
「貸した1000万と借金の2000万だろ? 自分でもそう書いてたじゃねーか」
「まあ、そうですけど……」
「礼なら受け取らねえぞ」
どうやらきちんと言わないと伝わらないらしい。と思い、お礼は受け取らないときちんと伝えた。しかし、それでも首を横に振るのである。
「じゃあ何なんだ。答えろ」
「…………じゃあ、言いますね」
日向はす、と息を吸って、吐いた。左腕の裾を捲り、こちらへと突き出す。あの日見た赤い線がまだ、うっすらと、残っているようだった。痕になっちゃいました。と笑って言う様が、なんだかおかしかった。
「私は跡部さんのお陰で生きています。私は跡部さんのお陰で人に優しくなれました。私は跡部さんのお陰で人生を選ぶことが出来ました。私は跡部さんのお陰でみんなに慕われる社長になりました。あと、お金持ちになりました。ところで……社会的地位からして、お恥ずかしくないところまできましたので……跡部さんのお隣が空いてるのでしたら、2000万で買い取らせて頂きたいのですが」
あの日あの時の、今にも死にそうな、そんな顔をしていた彼女からは想像もできない、素面での告白だった。
日向は真っ直ぐに俺を見据えて、俺のこたえを待っていた。
「俺様をたった2000万で買おうなんざ……」
口角が上がってしまうのが自分で分かる。答えなんか決まりきっていた。彼女がテストでいい成績をとる度に、図書室で難しい本を手に取る度に、胸のこの辺りが熱くなるのを知っていた。いや、思い出した。何もかも思い出した。あの時伝えるべきだった熱を、あの時共有するべきだった熱を、全部思い出した。
「気に入った、最高だ。くれてやる」
そう伝えれば、日向は、ありえない、という表情で固まっていた。まさか玉砕覚悟であんなことを言って、札束をダシにするなんて。呆れを通り越して笑ってしまう。
「ただし条件がある」
「え、は、はい」
あわあわ、と口を動かす日向の身体を抱き寄せる。歩道のド真ん中。人通りの多い昼下がり。延々と行き交う車。そんなもの、何も見えないし何も聞こえない。今すぐ抱きしめたかった。
「テメェの隣を2000万で買わせろ」
分かりきった答えは、唇で受け止めた。