後編
100パーセントの確信を持って蓋を開けた。箱の中の猫が死んでいる筈がなかった。
ごめんなさい、と腰を90度に曲げて立ち去る日向の背中を、呆然と眺めることしか出来なかった。
・・・
嘘を吐いた。
恋は恋で良かったのだ。恋愛にする必要なんてなかったのに、その線引きを超えたのは私じゃない、と心の中で何度も言い訳をした。
いつもよりギリギリの時間に登校すれば、丁度朝練が終わった仁王くんとばったり会ってしまった。席替えの神様は悪戯の悪魔にでも転職したのかもしれない。
どう声をかけたらいいのか分からなくて、目を背けようとした時、
「おはよう」
昨日のおはようと何もかもが一緒で、言葉を失ってしまった。やっと絞り出したおはようは掠れていて、多分、とんでもなく酷い顔をしていたと思う。それを笑われることもなく、また会話が続くこともなく、なんとなく距離を取って教室へと向かった。
次の日も、その次の日も。まるで告白なんて無かったかのように過ぎ去っていった。変わったことと言えば、渡部さんの話が無くなったことと、私の受け答えがぎこちなくなったことだけだ。
だから、きっと彼にとっては、告白でも何でもなかったんだと思うようになった。好きな子にフラれたから自棄になっていただけで、私の事なんて好きじゃ無かったんだ。慰めの一環だとも言っていた。
イタズラ好きの彼のことだ。うんとか、はいとか言ってしまえば、冗談だと笑ったに決まっている。
あれから1週間が経って、言い方は変だが、仁王くんとの会話は随分とマシになった。このまま元通りの、友達の距離感に戻っていくのだ。安堵した。ごめんなさい、と返したことにもう後悔はしていないが、それでも好きだったのだ。
「アンタ最近変だよ」
と、突然唯子が言い出した時には流石に冷や汗が出た。
「え。どこが。全然普通だし」
「う〜ん田中に告白されたあたりから? 挙動がヘンっていうか、やっぱりフッたの勿体無いって思ってるんでしょ」
「思ってない」
「ふーん」
そう言えば、そんなこともあったっけ。偶然同じ日で良かった。彼女にはこのまま何も言わないでおこう、面倒くさい。唯子はいつものように仁王くんの席に座り、明日の小テストの勉強をしようと言ってノートを開いた。今日は早く帰りたかったのに。でもまあ、唯子が赤点を取ることに比べればお安い御用だった。
「真っ白じゃん」
「寝ちゃった」
あはは、と付け加えて笑う。あははじゃない。中学生は義務教育、留年しないし大丈夫、と呑気でいる彼女の根性は叩き直して欲しいと思った。
簡単に教えながらノートを写させていると、唯子の携帯が鳴った。
「何かあった?」
「あ、えっと、ごめん! すぐ帰ってくるから!」
慌ただしく、理由を言うことなく教室を出ていった。
5分経っても、10分経っても、唯子は戻ってこなかった。心配になって、電話を掛けようと携帯を手にした時、
「まだおったんか」
廊下から聞こえた声は間違えることなく、仁王くんだった。
「ね、ねえ、唯子見てない?」
「さあ、見とらんが」
「そっか……」
やっぱり連絡しよう、と携帯に伸びた手を掴まれた。
先程まで唯子が座っていた椅子に腰掛け、肘をついてこちらを眺めている。あまりに絵になって、どくりと心臓が動いた。
私は、この人が、好きだ。気持ちに嘘を吐くことは出来なかった。
今からでもごめんなさいを訂正出来ないだろうか、と邪な気持ちが生まれて、本人が目の前にいなければ頭をブンブンと振って忘れようとしただろう。
何も言わない私を置いてけぼりにして、仁王くんは口を開いた。
「こうしてると、恋人みたいじゃろ?」
笑った顔が、いつもの悪戯顔と一緒で、
ぱちん、と。渇いた音が響いた。
手が出た。出してしまった。頬をおさえて呆然とする仁王くんと目を合わせられなくて、自分の鞄を掴んで、その横を通り過ぎた。
「私は……わ、たし……は……」
私は冗談が、大嫌いだ。
・・・
入学したての春だった。
「日向さん、好きです! 付き合ってください!」
人生初めての告白は、放課後の教室だった。恋も愛も知らなかった。だから何となく、
「良いよ」
彼の熱量に負けた。
「本当に?」
「うん」
「本当の本当に?」
「本当だよ?」
そう返せば、彼は顔を覆って蹲った。泣いているのか、そんなに嬉しかったのだろうか。そう思うと、なんとなくで返答してしまった自分が申し訳なくて。顔をあげてもらおうと、肩を掴む寸前だった。
「…………は、あはは……」
彼は笑っていた。
笑いを堪えられなくて、泣いているように見えたのだ。そして数秒後、堪えるのを止めた彼の爆笑が教室に響いた。
「え、な、なに?」
「冗談だよ! 遊び! 何引っかかってるんだよ!」
ウケる、動画撮れば良かったなんて続けるものだから、怒りの沸点を通り越して、怒る気力すらなかった。
辺りを見回せば、一緒に笑っているギャラリーもいて、初めに出てきた感想は、この人たちを好きじゃなくて良かった、だった。
人生2度目の告白は昇降口だった。帰ろうとした所を捕まえられて、早口に好きです、と伝えられた。同じクラスのよく知る人で、全く悪い人じゃない。爽やかで、人望もあった。彼と付き合える人は幸運だろうな、なんて思っていた矢先の出来事で、頬が赤くなるのが自分で分かった。
なんとなく、好きだと思った。
私も好きです、と言葉にしようとして、過ぎったのはあの笑い声で。耳から離れないそれがずっと囁いた。これは遊びだと、ゲームなんだと、嗤っていた。
「……ごめんなさい」
弱々しく絞り出して、相手の顔を見ることもなく、全速力で逃げ出した。
3人目は先輩の井上さん、4人目は面識のない小林くん。5人目にごめんなさい、と言う頃には、「絶対に彼女に出来ない」「難攻不落の女」などと陰で呼ばれ始め、明らかにおふざけで告白しているのが、見てわかる人も居た。
ここまできたら、もう流れ作業だ。好きです、ごめんなさい。好きです、ごめんなさい。好きです、ごめんなさい…………私を好きになる人なんていないから。そう思えば、ごめんなさいに罪悪感を募らせる事もなくなった。
・・・
次の日、1限が始まっても、仁王くんは教室に現れなかった。休みではないようなので、恐らくどこかでサボっているのだろう。彼はよくサボるのに、成績はいいのだから羨ましい。良くある事だから気にしなくていいはずなのに、昨日、手を上げてしまったことがどうしても頭を過ぎった。きっと無関係だ。私には彼のメンタルを左右させる程の影響力はないし、元々彼は気まぐれだから。ぎこちない会話をしなくていい、と前向きな気持ちを貼り付けた。
「茜〜、プリント届けるの手伝って〜」
「はーい」
昼休み。唯子の手には、なぜ女子1人に任せたと問い正したいくらいのプリントが握られていた。全クラスに配布してと言われたそうだが、そもそもクラスが多いのだ。
プリントの山を半分ほど貰い、端から順に回っていく。
「あ」
隣のクラスで顔を出したのは、田中くんだった。1クラスぶんの山を分けると、ありがとうと微笑まれる。
「それ、大変だろう? 残りは僕が配っておくよ」
と言いながら残り2つの山を貰っていく。あまりにスムーズに流れすぎて、遠慮をすることも出来なかった。
「はぁ〜、さては茜にいいとこ見せようとしてるな?」
「ちょっと、ば、ばか!」
「茜も茜だよ。何でフッたわけ?」
「唯子!」
慌てて静止するが、唯子はにやついたまま止めるつもりはないらしい。田中くんにごめんね、と言うと、彼は首を傾げていた。
「どうしたの?」
「あ、いや……その、僕が日向さんに告白したって、……なんの話?」
「茜にフラれたのがショックで記憶喪失になったのよ」
「はあ」
放課後になり、引っかかっていた事を話せば、そう返された。彼女が楽天家であることを忘れていた。この話題も終わらせたかったのか、早々に話しを切り替えられる。
「そんなことより、小テストめっちゃ良かった!褒めて!」
「私のおかげ?」
「自分のお陰ですー! めちゃくちゃ勉強したんだから!」
ノート写させてあげた義理を忘れたのか、田中くんよりよっぽど深刻な記憶喪失だ。
と思ったのだが、何かがおかしいと感じた。何がおかしいのか分からなくて、考え込んでしまう。
「茜、茜ー、どうしたのー」
唯子の声で引き戻されて、ああそうだと思い出した。
昨日、唯子は教室には戻ってこなかった。鞄は持って行ったが、机に開いていたノートはそのままだったはずだ。あの後戻ってきたのだろうかとか、仁王くんが気を利かせて返したのだろうかとか考えたが、直感がピンと来なくて、机の引き出しを漁る。
ほとんど新品に近いノートが1冊入っていた。ぱらぱらと捲れば、昨日唯子が出した真っ白いノートそのものだった。
「自分のお陰って、何見て勉強したのよ! 折角教えてあげたのに」
ノートを突き出せば、ごめんね、と可愛く謝る。と思っていたのだが、唯子は頭の上にクエスチョンマークを大量に出していた。
「なにこれ」
「何って、昨日ノート写させたじゃん」
「はあ? 何言ってんの?」
会話が噛み合わない。私も大量のクエスチョンマークを出した。私は昨日、確かに唯子とここにいた。なのに唯子はここにはいなくて……
「ごめん唯子。用事思い出した」
表情も返答も確認せず、教室を飛び出した。
・・・
「おまんが遅すぎて6限ともサボっちまったぜよ」
仁王くんは悪気の無さそうな顔で、裏庭でシャボン玉を吹いていた。雑に引っ掛けた靴を履き直して、2歩だけ近づく。
「ちゃんと説明してよ」
感情を抑えようと思ったが、声は大きくなってしまった。仁王くんはストローをぽいと投げやり、喉を鳴らして笑う。
「どう思う? 言ってくれたら、答え合わせしてやる」
「……昨日、教室にいた唯子、あなたでしょ」
「正解」
「この前告白してきた田中くんも」
「当たりじゃ」
「ねえ、何で? 私を怒らせたいの? そんなことして意味あるの?」
本当に、気づいたからと言って、だからなんだと言う話で。彼が詐欺師と呼ばれていることも、その技量も知っている。出来るとは思うが、それをする理由が、嫌がらせ以外に見つからない。
「俺は意味の無い事はしない」
「じゃあ何で」
続きを促せば、彼はとんとん、と自分の座っている所の隣の地面を叩いた。溜め息をひとつ吐いて、その場所に座る。
「俺は、」
全部の神経が耳に集められるようだった。風の音や鳥の鳴き声で、かき消されそうなくらい小さな呟きだったから。
「俺は今から本当の事だけを言う。信じるか、詐欺師の戯言と思うかは、まあ……」
その表情が、今までに見たことないくらい真剣で、息を呑んだ。
・・・
俺は、俺は日向茜という人間がどうしようもなく好きで、好きでいることを諦められなかった。
彼女は真っ直ぐだった。加えて俺は嘘吐きだった。当たって砕けろと言っても、絶対に砕けると確信していた。そして俺は100パーセント砕かれないと確信を持つまで、好きだと伝えないようにしようと思っていた。
日向はよく告白されるらしい、と聞いたのはいつだったか。そして全員にノーを出すと聞いたのもいつだったか。それは面白い、逆に燃える。試しに同じクラスの男子になりすまして、日向を呼び出した。テンプレートのような告白をすれば、彼女は腰を90度に曲げて
「ごめんなさい」
と、すっぱり、一言だけ言って去っていった。
当たって砕けなくて良かったと心底思った。その後も何回か、別の男のフリをして告白をした。顔も名前も知らなさそうな先輩、同じクラスの顔見知り、イケメンだと有名な後輩。エトセトラ。結果は全て同じで、彼女のごめんなさいは一種の流れ作業なのだと気づいた。
・・・
「田中に限らずあいつもこいつも俺だったかも、ということぜよ。何を言えば心に響くのか、どういう人ならオーケーなのか……まあ、おまんの答えは一緒じゃったが」
「どうしてそんなこと」
「100パーセント、イエスを貰う為」
つまり、私はずっと前から、仁王くんの詐欺に嵌められていたようだ。彼は、私のイエスが欲しいという、それだけで、私よりも私のことを知っていた。
「じゃあ、渡部さんが好きって言うのは」
「隣のクラスに渡部なんておらんぜよ」
「はい……?」
「おまんが友達少なくて助かった」
仁王くんは遠慮もなく笑う。馬鹿にされているのに、怒りが湧くほど落ち着けなくて、つまり、混乱していた。
「どういうこと? 全然分かんない」
「お前さん、『好き』って言われた時に動揺するじゃろ。それで反射的に『ごめんなさい』じゃ。だから架空の女にフラれたことにして、」
「同情で付き合って貰おうと思ったの?」
「ほーう、なかなか分かってきたのう」
「付き合えれば何でも良かったの?」
「俺は、好きな女を手に入れる為ならどんな手段でも使うぜよ」
そういう人だと、知っているけれど。普通の人ならどんな手段でも架空の好きな人なんて作らない。
「全部、計算してたってこと?」
「ああ。日向が嫉妬丸出しで渡部の話を聞いてくれた事と、色々プレゼント出来たのはオマケじゃが」
「し、嫉妬って……」
「俺のこと好きじゃろ?」
なあ、日向。
耳元で囁く声が怖いような、どこか優しいような気がした。
そう、確かに、好きなのだ。
私に1ヶ月以上も嘘を吐き続けた彼のことが好きなのだ。私に1ヶ月以上も心労を与え続けた彼のことがどうしても好きなのだ。それでもまだ足りない。まだ彼の嘘を全部知らない。一体どんな嘘でこの1ヶ月を塗り固めてきたのか、知ることが出来なければ私の嘘をバラバラに切り捨てることは出来なかった。
「昨日、唯子になったのは……」
「それはノーヒント。当ててみんしゃい」
なんて言われても、分かるはずがなかった。暫く考えてみるが、思いつくことなんて何も無かった。
「……分からない」
「じゃあ教えられん」
「教えてよ。教えないなら、私は……さっきの質問には、答えられない」
自分で自分を卑怯だと思った。でもそうするしかなくて、卑怯とでも、臆病だとでもどうとでも呼んで欲しかった。
「……寂しかった」
「え?」
「俺と話しても、ぎこちなかったじゃろ」
だから他人の姿を借りたと言うのか。ここまで言わせてしまえば、彼は本当に私の事を好きなのではと錯覚した。でも、それでも、こんなに手の込んだ嘘を仕込む彼の、盛大な大嘘かもしれない。それが怖くて、どうしようもなくて、唇をきゅっと結んだ。
「じゃあ日向の番。俺のことは好きか?」
鳥の囀りが聞こえる。この空間だけが別の世界にあるような、浮遊感があった。きっとこの答えをいくら先送りにしても、答えを出すまでは、この別の世界にいるのだろうと思った。
鳥の声が途切れた所で、仁王くんは、ふう、と息を吐き出す。
「もう本当にカード切れじゃ。これでごめんなさいって言われたらもう関わらん」
「え……?」
「俺は全部、本当の事を話したぜよ。次はおまんの番じゃ」
私の答えを待つ、と、そういう意味だった。本当のことを伝えなければ。でもそうやって、本音を吐露しようとすれば、あの笑い声が邪魔をするのだ。彼は嘘つきだ。みんな嘘つきだ。だったら私も嘘を吐くことで、自分を守らなくちゃいけなかった。
「自分に吐く嘘は楽しいか?」
そんなの、楽しくない。それは私よりも、目の前の彼の方が何倍も何十倍も知っているだろう。知っているから、そうやってじりじりと、私を追い詰めるのだ。
降参だった。私は、嘘で自分を守るという行為を、卒業しなければいけないようだ。
「私は、…仁王くんのこと、す……」
き、というたった1文字が続けられなくて、す、す、と壊れたロボットのように言い続けてしまった。その間も彼は笑うことも、言葉を挟むこともなく待っていた。私が嘘を吐かないことを、待っていた。
「あー、もう!」
自分に苛々して、声を荒げる。鞄を乱雑に開け、中を漁り、目的のものを掴んで仁王くんの手の中に押し付けた。
「何じゃ……メガネケース?」
「す、好きじゃない人に貰った物なんて、持ち歩かない」
貰ってから、勿体なくて掛けれなかった眼鏡だった。数週間しか経っていないのに、もう何年も前に貰った気さえする。
「レンズ入れたんか。使えば…」
「…………伊達だもん」
「何で」
「………………仁王くんに、……掛けて欲しくて」
顔が良いから、とは声に出さなかったけど。呆れただろう。幻滅しただろう。案の定、彼は声を押し殺して笑っていた。やっぱり、私はどこかおかしいんだ。人に好きを伝える方法がわからない。人の好きに答える方法がわからない。だから、恋で良かったのに。
もうダメだ。ここにいてはいけない。立ち上がろうとして、思いきり腕を掴まれた。
何が起きたか分からないうちに、私の頭は仁王くんの胸元に押し付けられていた。とん、とんと背中を優しく叩く手と、やんわりと髪を梳く手が、あつい。
「な、なに、仁王くん、あの」
「最高じゃ。愛してる」
手が触れたところから溶けそうだった。
「好き。愛してる。嘘に聞こえるならそれで良い。何度でも言ってやる。好きだ、茜」
ぽろ、と零れた涙を隠すように、頭を押し付けた。シャツが濡れていくのもお構いなしに、嗚咽する。
「泣きすぎじゃろ」
「ごめ、…ごめん、止まらな………」
「ほうら、顔上げんしゃい。顔が良い仁王雅治くんが伊達メガネの効果で2割増のイケメンになっとるぜよ」
言われるまま顔を上げれば、伊達メガネなんてそんなものはなくて、いつもの仁王くんが悪戯っ子のような笑みを浮かべていた。
「う、うそつき……」
声を絞り出した瞬間、私の眼鏡が外され、視界がぼやける。その一瞬の隙をついて、唇を塞がれた。
優しいキスだった。時が止まった。触れるだけのそれが、ほんの数秒のそれが、永遠のように感じられた。
名残惜しそうに離れ、暫くして返された眼鏡を掛けると、仁王くんの目許には金色のアンダーフレームがきらきらと輝いていた。
「……やっぱり、自分に似合うやつ選んだでしょ」
「はて、どうかのう」
彼の吐く嘘は
この世界の何もかもを、幸せにしていた。
end of story