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涼風の緑地アストラ。フリージアの領土のおよそ半分程の面積の、小さな島国である。今でこそ観光に訪れる者が多いが、長い歴史の中では、海を渡ってここへ辿り着く者は数少なく、また、この地に生まれ育った者の多くは、一度も外へ出た事はない。故にアストラの民は独自の文化を築き上げてきた。
サジャもその一人だ。所変われば信ずるものが唯一ではないのを、未だ真実として受け止められずにいる。彼女にとっては、否、アストラの民にとっては、この地に降りなす“天神様”は絶対神なのだ。
彼女は正直なところ、神を恐れていた。決して口にはしないが、初めてその姿を見た時から、彼の者への恐怖が拭えない。その時の事は、今でも鮮明に思い返せる。
−−王の間は、地下の冷え込んだ空気の中にあった。遥か過去に鼓動を失った人間を、アストラは讃えている。包帯で全身を巻かれた、王の骸だ。彼がその玉座に腰を下ろしてから何年が経過しているのか、サジャにもわからない。ただ、アストラの歴史上、王はその人たった一人だという。
サジャを含めた十数人の代表が、玉座を中央にして円を描くように佇んでいる。彼らは片膝をつき、両の掌を合わせて、眼を閉じる。天神様の光来を請う儀式だ。言霊に呼ばれた天神様は、王の遺体に宿るのだ。
王は、ゆっくりと頭を上げた。首を回し、その眼窩で十数人の民の姿を凝視していた。サジャと視線が合ったところで首の動きが止まった。総て吸い込んでしまいそうな闇色をしたその穴が、サジャを前にして一層暗く淀んでいた。
選ばれた。どうして私が−−とサジャは思わず落胆の表情を浮かべてしまった。それがアストラの掟である事は幼い頃から伝えられていた。もし自分が選ばれたとしても動揺はしない、とずっと昔から覚悟を決めていた。しかしサジャは拒んだ。
「今はまだ駄目です。待って頂けませんか」
彼女は天神様に懇願した。無礼を承知で立ち上がった。少し膨れたお腹に手を添えて、言った。
「私の身は捧げます。しかし、せめてこの子が生まれるまで、どうか......」
集まった民はサジャを責めた。天神様に拒絶の意を示した者は今までにいなかったからだ。
王の唇が開く事は無かった。だが、その場の誰も聞いた事の無い声色が響き、全員が息を飲んだ。
「暫しの時を与えよう。いずれこの地の理を揺るがす者がやって来る。それまでその命は預けておいてやる」
−−あれからもう十数年が経った。王の間には、サジャはしばらく足を踏み入れていない。このままの時が続けば良いと願ってしまったので、王の姿を見てしまっては、それが無駄なことなのだと改めて認めてしまうと思ったからだ。
だが、昨日ノーアは言っていた。“理を揺るがす者”が、もうじき現れるのだと。王の予言の日が近付いているのだと。
それはまるで、彼女から別れを告げられたような気分だった。
「ノーア......」
愛する娘の名を呟く。あと僅かな時間を残して、彼女と永遠に会えなくなってしまう。十数年の間に忘れかけていた運命への抗いの気持ちが、再びサジャを苦しめる事になったのだ。
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