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 仲間が寝静まったと思われる時間、エルスは一人、甲板に出て夜風を浴びた。
 眠るのが怖かった。恐ろしい夢でも見てしまったら、現実との区別が付かなくなってしまいそうだったから。仲間の側に居るのが怖かった。今までの自分とは全く違う人間になってしまったようで、受け入れてくれるかが判らなくなったから。
 空気は冷えたが、それが却って彼の心を落ち着かせてくれるような優しさにも感じた。

「こんな所に居たんですね。風邪をひいてしまいますよ」

 今ではもう聞き慣れた声にエルスが振り向くと、そこにはいつの間にかターニャが居た。誰の足音も聞こえなかったので、驚いた。

「気温の変化は私たちにとっては平気ですけど、特に貴方は、今は休まなくてはいけませんよ」

 ターニャが手を差し出す。僅かに触れられた事で、咄嗟にエルスはその手を振り払ってしまった。

「ご、ごめん。そんなつもりじゃ」
「……こんなに寒くても、貴方の手はいつも暖かいのですね」

 エルスの頬が微かに染まった。

「さあ、中に入りましょう」

 しかし、彼は手を握り返す事はせず、その場から離れるのを頑なに拒んだ。

「今は……一人になりたくて」
「どうしました? 悩みが有るのなら仰ってください。私では力不足でしょうか?」
「僕のことなんだ。僕が自分で、何とかしないと」

 彼は意外にも強情な時がある。そういう時は決まって自ら孤独を選んでいるのだが、出会って間もないターニャには、それは未だ理解出来なかった。故に、彼を塞ぐ脆い壁を、いとも簡単に破ってしまう。

「やはり、ユシライヤさんでなければいけませんか」

 エルスは言葉に詰まった。
 確かに、いつだって従者は彼の力になろうとした。しかし、他の人間にそれを感じさせるまでに、自分は彼女を頼っていたのかと考えると、エルスは突然恥ずかしくなったのだ。

「そうじゃないんだ、今は誰も……」
「私は……貴方を救う為に来たのだと、言いましたね」

 ベルダートの王城で、エルスの目の前に初めてターニャが現れた時の事だ。母や叔父、そして従者も、警戒するようにと日頃言っていた−−どんな書物を読んでも、地上人とは分かり合えない、卑劣で暴力的な存在なのだと書かれていた−−そんな“天上人”なのだと、ターニャは名乗った。しかし初めて目にするその相手に、エルスは心を許したのだった。それは、彼女の瞳が真っ直ぐで、嘘をついているようには見えなかったからだ。
 今も変わらない。その双眸は透き通る海のようで、何にも侵されていない。彼女は自らに不利な状況になろうと、決して偽ろうとはせず、言葉を続ける。

「救うというのは、貴方を紋章から遠ざける事。創始者様から与えられた唯一の使命なのだと感じていました。でも今は……貴方のそんな表情を見ているのが、何だか辛いのです」

 それは、ターニャ自身も、自らの口から出た言葉だとは思えなかった。

「……エルスさん。もし貴方が、ご自分を信じられない時があろうとも、貴方を救いたいと思う私の事を、信じていただけませんか?」

 言い切ると、返答を待たずしてターニャは後退し、一人で戻っていった。
 彼女をすぐに追えず、エルスは再び広い孤独の海の上に身を預けた。

 エルスの記憶の中では、救われるという事は、暖かいもののはずだった。しかし今の彼には、どこか胸に突き刺さる言葉でもあった。
 間も無く浮かび上がった疑問は、自ら得たものなのか、誰か他人に植え付けられたのか、それすら判らなかったが−−いつだって自分だけが、救われる存在でいて良いのだろうか。そもそも、自分は救われるべき人間なのか−−と。

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