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 船体への被害は簡単な修復で済む程度で、アストラへの到着までは問題が無いだろうという事だった。それはファンネルが結界を張っていてくれたお陰なのだが、恐慌に陥った船上では、黒き船を沈めた術はおろか、結界に気を向けていた乗客は居なかったらしく、事態を引き起こしたのは自然の気まぐれで、いつの間にか助かっていた、誰もがその認識でいた。黒い船の存在すら、彼らの記憶には残っていなかった。尤も、その方が余計な説明をせずに済んだと、ファンネル自身は安堵していたのだが。
 安全確認の為に船が波の上に停留していると、救助隊がやって来た。海へ転落した者を捜索するも、行方がわからないか、変わり果てた姿で発見されるかだった。犠牲者の知人であろう女性が、悲痛な声を響かせた。船員と他の乗客は揃って黙祷を捧げた。エルスらもそれに倣った。のし掛かる空気は重いものだったが、長時間の航海は不可能であった為に、すぐにでも発たなければならなかった。
 何故このような悲劇が起こったのか。行き場の無い懸念、恐怖、怒りは、無事生きていることの喜びを押し潰してしまうかのように、乗客たちの間に広がっていく。

「考えを巡らせるまでもなく、狙いはお前だっただろうな」

 獣の姿のままのファンネルが、周囲には聞こえないようにして、エルスに言った。

「奴の言葉を聞いたか? あれはユリエを知る者だ。奴が現れた時、呼応石も不自然な反応を示している。そこらに蔓延るオルゼンとは違う。どうやら、お前がユリエとオルゼの宿主である事を知る存在が、俺たちの他にもいるらしいな」

 心当たりが無いとは言えなかった。黒き紋章ユリエを神とする、ユリエ教。フレイロッドが捕らわれていたその聖堂に一行を導いた教徒モニカ。エルスがユリエをその身に宿した瞬間は、ゼノンがその場から消えたのと同等だ。教徒はゼノンを−−ユリエの紋章の行方を探し求めただろう。その先でエルスという答えに容易に辿り着いたとしても、不自然ではない。もし、始めからそこにエルスらを導くことが、目的だったとしたなら−−。
 ユリエ教の意図するところは不明瞭だ。しかしファンネルは、然して問題にはならないと言うふうで、相手の詳細に関して、現状ではそれ以上探ろうとはしなかった。

「宿主。お前と紋章の適性も申し分ないようだ。あと僅かに安定させる事が出来れば、あの程度の奴がもし何度現れたとて、お前の相手にはならない」

 紋章の適格者。望んだ訳ではなかったが、エルスにはその素質が有るのだと、彼は言ったのだ。

「……でも」

 エルスは言いかけた−−助からなかった人だっているじゃないか−−と。しかし、それを口にする事は自分自身を、そして周囲をも責める事にも繋がった。だから堪えて、その先を別の言葉に言い換えたのだ。

「信じられないよ。あんなのが、僕が放ったものだったなんて。どうやったのかもわからないのに」

 無論、それも真実ではあったのだが。

「いずれ慣れる」

 とだけ、ファンネルは答えた。
 その後、すぐに丸くなってしまった獣の姿を見て、彼が以前『この姿でいるうちは手を煩わせるな』と言っていた事を思い出す。もし、彼の助けが無かったら−−その先の事は考えたくなかったが、これから訪れる未来に、その場合の想定が必要な時が訪れる。そんな気がしてならなかった。

 気温の低下と空の暗がりが、時の経過を告げていた。
 また数えきれない程に時が流れれば、いつか悲しみにも慣れるのだろうか。事実はいつか、記憶から消え去るのだろうか。
 今、そして未来に、彼らが進んでいる場所は、過ぎゆくものに覆い隠された悲劇の上なのかもしれない。

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