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 自然に起こったとは思えない現象に、乗客のほとんどが身の危険を感じ甲板に出てきた。しかし、そこから脱出しようにも、荒れ狂う海の中に飛び込む訳にもいかず、揺れの激しい船上で、立ち往生した。中には、抗えずに海へ投げ出されてしまった者もいた。その者を助けようと、自ら絶望の渦へと身を預けようとする者もいた。
 その事態を引き起こした少女は、甲高い笑い声を響かせながら、その様子を愛おしそうに眺めていた。

 術者を抑えれば事態は収束する。ターニャが黒き船を標的として術を唱え始めるが、不安定な船上では誰もが自身の身体を支えるのに精一杯で、彼女も思うように詠唱を続けられずにいた。 ファンネルは甲板の中央で、未だ繰り返し空から呼び出される炎から船を守るための壁を維持し続けていた。
 海に投げ飛ばされまい、と乗客たちが必死に耐える中、刹那、掴まるものを失ったエニシスの手が空を泳ぎ、すんでのところで彼の腕をユシライヤが掴んだ。混乱の船上に、冬の冷たい海水が次々と押し入ってきた。

「みんな死んじゃえば良いんだわ。ユリエ様の器だって、どうせ不死身だし。傷付いた者がより多ければ多いほど、あなたは完全になれるのよ……!」

 ユリエの器−−そう呼ばれたエルスは、正体不明の船の上に術者の姿を確認した。はっきりとは見えず、その言葉の全貌までは届かなかったが、この状況が人為的にもたらされたものだという事が判るだけで、悲しみや怒り、悔しさが込み上げ、彼の感情はそれらに支配されていった。その視線は唯一黒き船を見据えていて、そこに感情を向けようと思えば思うほど、彼は周囲の状況にも、自らに降りかかる状況にさえも、どこか隔たりを感じた。
 あいつを止めないと−−彼は思った−−みんなは、僕のような身体じゃない。だから僕が、みんなを守らないと−−と。

 唯の夢だったかもしれない。それも、自分自身が思い詰めた事で、彼の言葉として脳裏に聞こえてきただけかもしれない。それでも、エルスにとっては真実だった。『お前は今まで守られてきただけだ』と、その言葉が。

 何者かの咆哮が響き渡った。否、そう思われる程の鳴動だった。空が幾つかに切り裂かれていた。ターニャらがそれを確認出来たのは、海と、彼らの乗る船が安定し始めたからだ。彼らに混乱を与えていた術者の少女も、詠唱を忘れ、呆然と上空を見上げていた。
 エルスが自分自身の意識を再び確認出来たのは、この瞬間だった。いつ我を忘れたのかが解らなかった。腕は未だ怒りに震えていた。周りを見るとまるで時が止まったかのように思えて、倣うように彼もまた空を見上げた。引き裂かれた複数の空間から、黒い獣のような姿が見えた。それは生きているかのように空中を舞い、標的を見付けると、まるで放たれた矢のように、一斉にそれに向かっていった。

「そんな……。どうして、ユリエ様−−お父様!」

 空から呼び出された魔獣は、いつの間にか数も増えていて、雨のように黒き船を打ち付けた。術者の少女は何かを叫んでいたが、彼女に向けられる慈悲は、今となっては皆無であった。黒き船は形を留める事すら最早叶わず、静かに沈んでいった。
 しばらく経っても静寂が続き、一人が安堵の声を上げた。それに続くように、乗客たちは身を寄せあって、互いに無事であることを喜んだ。

 空から獣が現れた時、ターニャは僅かに呼応石が反応していたのを見た。黒色の輝きの反応。あれは紛れもなく紋章術なのだった。それも、過去に見覚えがある。フリージアの聖都シェリルの大聖堂で待ち構えていた黒装束の男−−ファンネルが言うには、彼の旧友ゼノン。その男の放った術と酷く似ていた。尤も、術を行使した当人は、その自覚が無いようではあったが。

「よくやった……と言うべきか。宿主、それがお前の紋章術だ」

 ファンネルの言葉が、寒空に響いた。

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